スパイシークラシック

潮江文次郎という男は、その無骨そうな顔に似合わず繊細な音を出す。

常に仏頂面。あるいは怒るか怒鳴るかしかめ面。あげく目の下に年中消えぬ隈を作っているものだから、人の細やかな心情の変化など理解できそうにまったく見えない。恋の経験など皆無だろう。とはいえその才能にひかれて彼に近づこうとした女性は過去には何人かいたらしいが、しかし全員が全員、たちまちその気難しさと歯に衣着せぬ物言いの粗雑さに呆れて逃げるように去っていった。潮江は潮江でそもそも自分を高めることにしか興味のないような男である。彼女たちの匂わせる恋愛の予感をつっぱねたというよりは、たんに気づかなかっただけなのだろうが。
そんなわけで、潮江は機微のkのアルファベットも理解しているとは言いがたい男だった。なのにひとたびバイオリンをもつと、やつはたちまち胸を打つ空気をかもしだすのだった。そうなるとそのしかめ面も人の世の不条理を憂いて作られているものに見えてくるのだから、本当に潮江文次郎という男は不思議な男である。
つまり何を言いたいかというと、いくら時代の寵児だ、なんとかの再来だ、ともてはやされている男であっても、バイオリンがなければただのいけすかない男に過ぎないということだ。人はよく俺と彼との関係を好敵手と形容したが、とんでもない。ただ偶然同じ年同じ国に生まれ、同じ楽器を手にとってしまっただけのことだ。こと最初のふたつに関しては、自分がしでかした最初の過ちだと思っている。
 
 
 
***
 
 
 
「なんで見送りにいかなかったんだ?」

教室から出たところで不覚にも潮江とはちあわせ、一瞬険悪な空気が流れたものの向かう方向が同じなのか必然的に並んで歩くことになり、俺は心の中で悪態をついた。ついでだ、とあえて視線は合わさずに放った言葉は、陰険な一瞥でもって迎えられた。見なくてもわかる。やつの視線は、ぎろり、と音がする、のだったらさぞ愉快だろうと思うのだが、大体いつも同じパターンなので予想がつくというだけだ。

「てめえに関係あるのか」
「ああ、関係ないね。だがあれじゃ立花があんまりだろう」
「どっちにしろお前しか行かなかったんだろうが。文句があるなら小平太と長次と伊作にも言え」
「あいつらには正当な理由がある。お前にはない」
「俺の勝手だ。いい年した男5人でぞろぞろと見送りなんざ、恥ずかしくてできるか」

いらいらと吐き捨てる。俺はもう、何をしたくて口を開いたのかすでにわからなくなっていた。というよりもどうでもよくなっていた。

「置いていかれたからといって不貞腐れるなよ。いい年をした男なんだろうが」
「誰が不貞腐れるか!」

潮江は声を荒らげる。続けざまに負け惜しみがマシンガンのごとく飛んでくるかと思ったが、一転して黙りこくってしまったので、俺はそこではじめて潮江の方を見た。
潮江は俯いて、眉をしかめていた。
俺は思わずじっとその表情を見つめてしまう。

「立花のやつ、今まで散々留学の誘いを断っておきながら、親父が死んだとたん掌を返したようにさっさと行っちまいやがった」
「唯一の肉親だったんだ。最後までそばにいてやりたかったんだろ」
「…ああ、わかってる!」

潮江はそう怒鳴ったきり、再び口を閉ざす。
潮江が腹を立て、思いをめぐらせていること。それを考えるよりも先に、ひとりの少女の顔が浮かんできて、唯一という言葉の使い方を間違えたなとぼんやりと思った。

「お前はなにも思わないのか」
「…なにがだ」

しれ、とした顔をして言う。さぞかし冷淡に映ったことだろうと思う。計算してやったのだとは気づきもしないだろう。

「なんで俺が立花に腹を立てなきゃらならないんだ。あいつが留学しようが出世しようがモデルになろうが、俺たちには関係ないだろうが。それともお前は心機一転、ピアノを始めるつもりなのか」

肩からずり落ちかけていたバイオリンケースを抱えなおし、ふん、と鼻を鳴らしてみせると、潮江はぐっとうなった。同じく音楽の才能を認められた彼らとはいえ、奏でる楽器は同じではない。だから本来なら、ここまで潮江が立花のことを憎憎しげに語るのはおかしいことなのである。
立花の一件でレヴィアタンに身をやつした輩ならこの大学では珍しくない。だがこいつが余裕をなくしているのはそれが理由ではない。
俺はおそらく、非常に不本意なことだが、やつの心境を理解してしまっていた。そしてどう言えばやつの逆鱗に触れることができるのかも。無慈悲にやつの目の前に突きつけてやることもできる。しかし俺の口はただため息を吐き出すことだけを選んだ。
俺たちはもう乱闘をするには大人になりすぎている。

「…つきあってられるかよ」

ちょうど建物から外へと出たのでこれ幸いと潮江から離れようとすると、ふいに、思いっきり肩を掴まれた。
なにさまのつもりだ。いらいらとふりむけば、動揺した瞳は俺の方をむいてはいなかった。俺は自然とその先を追っていた。
建物からすこし離れたところに、薄手のコートに身を包んだ少女が所在なげに立っていた。コートの間からのぞく足は春だというのに青白い。俺たちの視線に気づくと、戸惑いがちに小さく会釈をする。会釈というよりはすこし首を傾げただけといった感じだった。向こうで待っているという意味なのか、自分の背後を指差してくるりと踵を返す。
彼女を追おうとすると、がっちりと肩を掴む潮江の腕が邪魔をした。やつは純粋に驚いているようだった。

「なんだあれは」
「もう忘れたのか。立花の親父の葬式でお前も会っただろう」
「ばかたれ。そういう意味ではないわ」
「はは。知ってる。なんでここにいるのかって意味だろ。立花の見送りにな、あいつもいたんだ」

俺は一度だって、見送りが俺一人だったなんて言っていない。だから嘘は言っていない。

「どういうことなんだ」

真意を測りかねている、といった顔だった。そういうことなのか、と言う。さてな、と俺は笑った。それが答えだった。

「よりによって…」

潮江はどう反応していいのかわかりかねているらしい。眉をしかめたり、彼女の後姿に視線をやったりして、明らかに落ち着かない様子だった。
俺は笑って、彼女のあとを追いかけた。

「いつまでも二人で生きていくわけにも、いかないだろう」
 
 
 
***
 
 
 
一応の詫びの言葉と共に待たせてしまったか訊ねると、別に、とひどくあっさりとした返事が返ってきた。気遣いの言葉(全然待ってないよ!)でも、甘える言葉(だいぶ待ったよさみしかった!)でもないあたりが、なんともいえず彼女らしい。俺はわりとこいつのそういうところが気にいっている。

「音大ってはじめて入ったけど、なんだか不思議な雰囲気ね」

彼女は周囲を見渡しながら言う。鼻のところに少し皺がよっていたので、あまり好意的な言葉ではなかったようだ。お気に召さなかったらしい。

「潮江さん、よかったの」
「なにがだ」
「邪魔をしちゃったかと思って」
「“別に”」
「…そういうとこ、なんか兄さんの友達っぽいよね」

俺はなんとなく振り返る。さっきまで俺がいたところには誰もいなかった。潮江はそこよりさらに向こう側を歩いている。練習室に行くのだろう。もはや俺の方をみてはいなかった。見るにしたって生物的信号によって網膜に映すだけに過ぎない。いつものことだ。