何も来やしない

買い出しから帰ってくると雷蔵が眠っていた。腰から下をこたつにつっこみ、クッションに右頬をうずめ、すうすうと寝息をたてている。どの位置をとっても安眠は決定的だった。反論はうけつけない。一足先に部屋に入っていた三郎がむきだしの肩に毛布をかけてやった瞬間、ううん、と何やら唸ったが、案の定それだけだった。

はてさて、といった様子で振り返った三郎と目があい、葛葉は手元のビニール袋を床においた。特に理由も約束もなく集まり、とり鍋をはじめたのが2時間前のこと。あっという間に干された買い置きの酒を補充すべくコンビニへ三郎とふたりで繰り出したのが20分前。雷蔵は酒に関してはざるもいいところだったが、この程度であっさり意識を手放してしまったところを見ると、疲れがたまっていたのかもしれない。講義にはすべからく無遅刻無欠席、あげく生活費を稼ぐため家庭教師のバイトに精を出す雷蔵はまさしく苦学生だった。とり鍋なんかより雷蔵の爪の垢を煎じた鍋でもやるべきだね、と日ごろの行いを省みて言うと、やりたきゃやれば、と三郎はさらりと流した。おまえに言っているんだ、という呪詛のうめきも当然のように無視された。

そんないきさつのあった鍋だったが、目下の問題はだしの種類ではなく、眠りこける雷蔵を横目に再開するべきか否か、であった。あれば食べれなくもないが、正直なところ、葛葉はあとはアルコールが摂取できればそれでよかった。歯に衣着せずそう伝えると、俺もだ、と三郎も自分のビニール袋から缶ビールを取り出した。そうしてダウンジャケットを脱ぐ手間さえ厭おしいのか真っ先にプルタブに手をかける。葛葉も彼に倣ってチューハイを一本とりだし、プシュ、と音をたててプルをひいた。

雷蔵の隣の辺に足を滑りこませ、テレビのリモコンに手を伸ばしたところで、葛葉はかたまった。三郎が電気を消したからだった。抗議の声をあげる間もなく次の瞬間にはベランダに続く窓を開けている。音もなく忍び込む冷気に咄嗟に気にしたのは床の上に転がる存在だった。三郎を睨みつけたが、彼の姿はすでにサッシの向こう側にあった。動作の意図はまったくもって不明だったが、三郎自身は少しもおかしなところはないような振舞いをしていた。少なくとも葛葉の目にはそう映った。
「来いよ」
いつも通りの人の上に立つ物言いを残すと、彼はあっさりとガラス戸を背にぺたりと腰を下ろした。葛葉が彼を追って3度の冷気に身を晒すことを疑いもしない。
マフラーをぐるぐる首に巻き付けた葛葉が窓を閉めたのを確認すると、三郎はどこからともなく小さな箱を取り出した。マルボロブラックメンソールエッジ。火をつける手つきは慣れたものだった。そしてそうするのが当然といったようにジジジと音を立てる煙草を葛葉の方に寄越してくる。反射的に受け取ったが、彼女の眉間には深い皺が刻まれていた。
「いつの間に買ったの」
「俺は煙草は買わない」
「雷蔵の器に睡眠薬でも仕込んだ?」
「まさか」
「わたしもどっちかっていうと嫌煙家なんだけど」
細く長く吐き出される煙は、それ自体で嘲笑のようだ。大方、顔のない女の子たちのどれかが置いていったものなのだろう。三郎の思慮に欠ける行いの証拠に辟易するのはもういい加減うんざりだった。いっそ悲壮感すら漂う。
「音楽が欲しいなあ」
お互い無言で紫煙を吸っては吐くのを繰り返すうち、ふいに三郎が口にしたのはそんな言葉だった。
「やめなよ。雷蔵が起きちゃう」
「そうだな」
「あと近所迷惑」
「ふつうそっちが先じゃね」
葛葉は肩をすくめた。罰の悪さは微塵も混じらない。
フィルターを咥え直したところで嫌な気配がしたので咄嗟に頭を巡らせると、案の定三郎が鼻歌を歌い始めていた。あーあ。言っても聞かないこいつは本当に何様なのかと思う。しかしわずかな騒音にめくじらを立てるのもいかがなものか。ざっくばらんに言って葛葉もまたいい加減だった。
目を閉じ、かすかな旋律に集中すれば、すぐに海外の有名な曲と知れた。ばかみたいに美しい声で歌うものだから癪に障るのだ。三郎の発音は厭味ったらしく清涼だ。ずいぶん長いこと待ったけど、何も来やしなかった。そう歌い上げる彼の歌声はきれいなのにどこかかなしい。
 
 
 
煙草一本分の時間が流れると、三郎の歌もいつの間にか止んでいた。もとより手持ち無沙汰を紛らわすために三郎が勝手に始めたものだ。やめるのも三郎の自由だ。そう思って久々に目を開くと、すぐそばに三郎の顔があった。
発すべき言葉が見当たらない。探しているうちに、唇に柔らかいものが押し付けられた。体が動かないことの理由として両肩に奇妙な熱さを感じている。
気づくと、また三郎の顔はいつもの距離感で佇んでいた。風が通り抜けるような、ほんの一瞬の戸惑いだった。三郎はいつもより少しだけ深刻な表情を浮かべている。しばらくして、彼はたった一言だけ、
「やっぱ違うな」
そうぽつりとつぶやいた。ざわり、と足元から寒気が這い上がるのがわかった。彼の声色が驚くくらいいつもと同じだったからだ。三郎はすべてを承知していた。
 
 
 
さみー、といういつもの軽薄な声が聞こえた。次の瞬間には室内灯とカセットコンロの再点火される気配を背後に感じている。