言えるはずもなく

手元の紙をみた瞬間の久々知くんの顔が忘れられない。『愕然』とはまさにこの表情だと、ひたすらに感心している自分がいた。写真に撮って辞書に載せたいとすら思った。ああ、これが『愕然』という表情なのか、なるほど、今まで自分が思い描いていたのよりだいぶ絶望的な表情なんだな…何人もの人がそれぞれ感想を抱くシーンならいくらでも思い描けた。ある詩人が神からの啓示の如くその単語と写真にインスピレーションを受け、乱雑な机の上をひっかきまわしてはようやく紙とペンを発掘し、イメージを言葉に書き留める、なんてことだってあるかもしれない。それくらい可能性に満ちた表情だった。あごの無精髭を指先で撫でながら(どういうわけか、わたしの思い描く詩人にはみな無精ひげが生えていた)、詩人が自分の書いた詩を読み返す、ところまで、場面が進んだところで、久々知くんがこちらを向いた。
「ここまでとは思わなかった」
 
 
 
 
久々知くんが愕然としているのは、わたしの夏休みの英語の課題のことだ(驚いたことに、大学生になってもまだ夏休みの宿題なんてものがあるのだ)。といってもその原稿用紙は真っ白のままだったから、まだ英語の課題ですらなかった。ただの紙だった。ちなみに今は夏休みももう終わろうかという晩夏である。
「こんなの簡単だろ」
夏休みに入って一週間でその課題を仕上げてしまったという久々知くんは、まだ“愕然”とした表情をしていた。アフリカ奥地で原住民族の食生活を目の当たりにした探検家は、こういう顔をするのかもしれない。
「高校生までにならった程度の英語を使って、テーマに沿って英作文を書くだけだろ。自分の考えていることを好きなように書けばいいだけなんだからさ、なにも難しい語彙や文法を使う必要だってないんだし」
わたしは少し目を伏せて、緑色のストローを口にくわえた。宿題というものが、もう、ただ宿題であるというだけで、そのアイデンティティゆえに、ストレスフルだと感じる人種がいるということを、たぶん久々知くんはわかっていない。知っているかもしれないが、理解はしていない。往々にしてそういうものだ。
液体が引いていき、つやつやした氷の表面があらわになる。
「せっかく大学に入ったのに勉強しないなんてばかだよ」
久々知くんは真剣なまなざしをしている。睫毛がとても長い。肌が白いのでとてもよくはえるのだ。ざっとわたしの1000倍くらい。そう、久々知くんはこういう形をしていたのだった。会えなかった日も、忘れたことなんてなかったはずなのに。
「勉強する人はよく訓練されたばかだよ」
ストローでざくざくと氷をつつきながら、ぼそりと言う。
一瞬、奇妙な空気が流れた。
「…そういう気の利いた皮肉がいえるんなら、こんな課題早く終わらせろって」
ほら、これに下書きして、と、机の上にのっているルーズリーフを指で叩く。白くて長い指。夏休み中ずっと武道場にこもって剣道をしていたという久々知くんの指はまったく日焼けしていない。一方で夏休みの間家に引きこもるか、バイトをするか、三郎と不破くんと飲むかしかしていなかったわたしの指もまた、日焼けしていない。対称的な時間の使い方だと思う。
ずいぶん久しぶりに久々知くんが古本屋に姿を現した時の驚きは、ちょっと口では言い表せない。あのときのようにとりとめのない話をしていたら、なぜか英語の課題の話になって、気づいたらスタバに来ていた。手伝うよ、と言ってくれたのだ。
久々知くんは夏だというのにあたたかい飲み物を頼んでいた。あのちいさな穴の空いた、飲みにくいことこの上ないプラスチックのふたが被さっているので、中の液体の色は見えない。

ねえ、なにを飲んでいるの。そしてわたしはさっきまで、なにを飲んでいたのだっけ。

記憶はひどく曖昧だ。なんでか、知らないけれど。
久々知くんは原稿用紙をじっとみつめている。ずっと見ていれば文章が浮き上がって、課題が完成するとでも思っているのかもしれない。
 
 
 
 
もちろん課題は閉店時間になっても一文だって書き終わっていなかった。
「どうするんだよ」
久々知くんは言う。呆れているのと、心配しているのと、途方に暮れているのがちょうど三等分で交じり合ったような表情だった。
「どうしたらいいのかな」
話がかみ合っていないことに、きっと久々知くんは気づいていない。