「今日って何曜日?」
この部屋にひとつしかない座椅子を当然の顔で占領し、テーブルの上に載っていた本をぱらぱらと捲っていた花村がいきなり声をあげた。俺はキーボードを打つ手を止めて、顔だけで彼女の方を向く。
「金曜だけど…」
「うそ…すっかり忘れてた。ごめん、帰るね」
花村はベッドの上に放りだしていたバッグをつかむと、立ち上がった。
「用事?」
「ん」
彼女は素っ気なく頷く。しかし悪気があって言っているわけではないらしいので、それ以上追求するわけにはいかない。俺は玄関に立ち、花村がスニーカーを履くのを黙って見下ろしていた。
「じゃあまた」
「うん。竹谷にも謝っといて」
彼女はあっさりとドアの向こうに消えた。耳を澄ますと、パタパタと小走りで階段を下りていく足音が聞こえてくる。その音が遠ざかり、全く聞こえなくなったところで、今度は別のドアの開く音がした。それからすぐに目の前のドアが開く。
「うわっ」
玄関に入ってすぐのところに立ち尽くしていた俺を見て、竹谷が大きな声をあげた。俺だって、扉を開けてすぐ前に人が立っていたらきっとものすごく驚く。もちろん、そういう反応を期待してやったのだ。
「竹谷、すごい顔してるぞ」
「うるせ。てか、なに、どうしたの」
「そこで 花村見なかった?」
「葛葉ちゃん?みてないよ。なんで?」
「いや、たった今帰ったんだよ」
「帰った?ひでー。今日集まろうって言ったの、あいつだぜ」
「なんか用事があったみたいだよ」
「うっわ。あとで文句言ってやろ」
さっきまで花村の座っていた座椅子に腰を下ろしながら、慣れた手つきでテレビのスイッチをいれる竹谷を横目に、俺はホットコーヒーを入れるためにキッチンでやかんに火をつけた。梅雨の走りとでも言うのだろうか、もうすぐ6月になろうというのに今日はとても肌寒い。ラックに逆さまの状態でずらりと並んでいるマグカップから適当に2個えらびとり、ひっくり返してインスタントコーヒーの粉末を落としながら、この部屋の食器もずいぶん増えたなと思った。最初は一人暮らしに必要最低限な分しか持ってこなかったのだが、花村が何かにつけてマグカップだの皿だのを持ちこみたがるのでこんなことになってしまったのだ。そんな花村に感化されるようにすぐ隣に住む竹谷までもが新品のコップと茶碗をもってきたときにはさすがに閉口した。恨みを込めた視線を向ければ、「紙コップとかペットボトルってなんだか味気ないし」、と花村はあっけらかんとしたものだった。「環境にも悪いしな!」と言ったのは竹谷だ。がさがさとポテトチップのプラスチック袋を開けながら。
ここを訪ねてくる奴らといったら、揃いも揃って遠慮と慎みというものを知らないやつらばかりだ。 花村も竹谷も、そして三郎も。雷蔵だけが唯一の常識人なのだが、生憎この部屋にはまだ来たことがない。
「これなに?」
突然竹谷が声を上げたので、俺は部屋の方へ首を向けた。
「あ、それ花村が持ってきたの。もって帰るの忘れたんだな」
おみやげ、とスチール缶の入ったコンビニ袋を掲げた花村を思い出していた。
「うまそう!食べようぜ!」
「花村いないんだからだめだよ」
「いいじゃん。どうせあいつ食べないよ。1個くらい残しときゃ十分だろ」
制止に入ろうとしたときには、竹谷はすでに缶についた透明なテープをぴいっと剥がしている。
「あ!こら!花村怒ってもしらないからな!」
「大丈夫大丈夫。葛葉ちゃんはこんなことじゃ怒ったりしねぇよ」
やかんから湯をそそぎ、できあがったうすっぺらなコーヒーを机の上に置いた。あーあと思いながら、いかにも美味しそうにチョコレートを頬張る竹谷を睨んでいると、物欲しげな目だと勘違いされたらしい、なんの気兼ねもなく俺の目の前へ缶を差し出してきた。そこでチョコレートを口に入れてしまう自分は、確実に無遠慮になれてきているのだろう。むかしの自分は決してこうではなかった。
「で、さっきまで何してたの」
「部の仕事してた」
「ふたりで?」
「いや、俺だけ」
なんで花村が部の仕事をするんだ。間違っても人の手伝いをするような気の利いた女ではない。
「じゃあ葛葉ちゃんは?」
「花村は本読んでた」
竹谷は盛大にあきれ顔を作る。
「おまえらさ、久しぶりに会ったのにそれはねぇだろ」
「…そりゃそうだけどさ」
俺たち3人が出会ったのは去年の秋のことだったが、それでもなんの気兼ねもなく、そして目的すらなく集まるだけの仲になるのにそう時間はかからなかった。竹谷はもともと人と触れ合うのが好きな性質だったし、気難しさにかけては人一番の花村もどうやら竹谷のことは気に入ったようで、学年が変わってからというもの、学食でふたりして定食をつついているところをよく見かけた。
しかし3人全員で会うのは今日で実に1ヶ月ぶりになるはずだった。冬から春にかけてはほぼ毎日のように部屋にあがりこまれていたことを考えれば、ずいぶん間隔があいたなと思う。部活をやっている俺と竹谷はちょっと前まで新歓行事にかりだされていたし、しかもバイトと練習に追われていた俺は花村に会う機会を完全に失っていた。
「もうすぐ大会があるからさ、いろいろやることが多いんだよ」
俺はコーヒーを啜る。
「大会…そっか。おまえ運動部だもんな」
「夏は運動部の正念場だよ」
「大会いくつあんの」
「3つかな」
竹谷はにやりとし、
「忙しくなって大変だな、次期部長さんは」
と言う。別に大変じゃないよ、好きでやってることだし。っていうかおまえも次期会長だろ(竹谷は野生動物研究会をやっている)、と言おうとして、ふいに目のはしに映っていたチョコレートの缶に書かれている文字がなにやら見慣れないものであることに気がついた。スチールのそれを手にとってまじまじとみてみれば、内容こそわからないが、見覚えのある形であることはわかる。なに、と竹谷が横から覗き込んでくる。
「…ドイツ語だ、これ」
つまり、知らないうちにドイツ製のチョコレートを食べていたというわけだ。
えっこれドイツ語なの、と間の抜けたことを言ってのけた竹谷は無視して、俺は首をかしげた。
「なんで花村がこんなのもってきたんだ?」
しかも、無造作にコンビニ袋にいれて。(あの様子からは外国製の菓子に対する敬意など微塵も感じられなかった。)
たずねてみても当の本人はすでにいないので、しばらくの間俺は頭をひねることになる。