小指爪ほどの幸福1

武道場から出た俺を一番にむかえたのが灰色の空だった。そのときからすでに嫌な予感は感じていたけれど、駅までの距離はどうしたって縮められない。急ぎ足もむなしく、俺はコンビニで買ったばかりの安っぽいビニール傘をひらく羽目になった。ビニール越しに厚い雲に覆われた空をふたたび見上げれば、水槽の中に迷い込んだ魚のような気分になってくる。普段ならもう少し人通りのある街路も、天気と時間帯が手伝ってか、人の姿はほとんど見当たらない。上空で沈黙を守っている巨大な広告の群れの下、俺は息を殺して足を進める。
はじめはちいさくぽつぽつとビニールを打っていた水滴も、次第に数を増してきていた。濡れるコンバースを横目についたため息は、暗く沈んだ街並みに吸い込まれていくようで、重く逸らした視線の先、ひっそりと佇むそれに気づくのが大きく遅れた。完全にぼんやりとしていた。
脇道の、その少し奥に古びた本屋があった。商店街によくある由緒正しい本屋とか、青と黄色も鮮やかな古本屋の類ではない。今どきあまり流行らない古書の類を置く店のようにみえる。気づけば、俺の足はそちらの方に向かっていた。雨宿りだって今どきあまり流行らないのだけど。

立て付けのあまりいいとは言えない引き戸を開けた先には、こちらの予想通りかび臭い本がうず高く積まれていた。店内は本棚で埋め尽くされてほとんど足場のない状態であり、その本棚をさらに古書ばかりが埋め尽くしているのだから、それはもはや混沌たるありさまといってよかった。店内は薄暗く、聞こえる音といえば外の雨音だけで、圧倒されているのか感心しているのか、その違いはよくわからなかった。
閉じた傘から滴るしずくが無愛想な本たちを濡らさないように、俺は慎重に狭い通路を進んだ。そう広い店ではないので、ちょっと歩いただけですぐに壁につきあたってしまう。その壁にすら棚がすえつけられていて、やはりかび臭い本でいっぱいなのだった。そうして方向をわずかに変更したところで、本を読む女の子を見つけた。備え付けられたカウンターの後ろ側、本に埋もれるようにして、くたりと椅子に背をもたせて座っている。当然のようにそのカウンターにも本がバベルの塔のように積まれていたので、見逃さなかったことが不思議で仕方がなかった。
俺は足を止めた。彼女が胸の前で広げているのはつややかな文庫本で、明らかに売り物ではなく彼女の私物だろうと知れた。かかとを足元のゴミ箱にのせ、完全にくつろぎモードの彼女は、表情こそ違うが確かに見覚えのある顔だった。話したことはほとんどといっていいほどないが、面識ならある、あの子だ。しかしこれだけ凝視していても彼女の方ではまったくこちらの存在に気づかないようで、すると非など全くないのにいけないものを見ている気がしてくるのだから、不思議なものだ。とっさにきびすを返そうとしたところで、ふいにふたつの瞳が俺をとらえた。
とっさに彼女が浮かべたのは、純度100%の驚きだった。針でも飲んだかのような、人ではない何かにでも遭遇したかのような、それはそれは純粋な驚きで、俺もつられておもわず息をのんだ。

この忘れられた記憶の山の中、ありとあらゆるものは現実感を失ってしまっている。俺は自分が砂漠の真ん中にいるのを想像して、少しだけ笑った。
 
 
 
(木々も灰に染まる日々)