予感のようなものならあったのだ。だから常に細心の注意を払っていたし、一瞬たりとも気を緩めることもなかった。それでもこんな結末になってしまったのはやはり、彼の方が上手だからなのだろう。
再会から一週間。帰宅するとスーツケースが跡形もなく消えていて、あわてて確認したポストの中には合鍵が無造作に投函されていた。リボンの切れ端を結びつけただけのその金属は、あの人のポケットで一週間を過ごしたことなどおかまいなしに冷たく光っていた。
兄さんのことをよく思い出す、と言ったら嘘になる。昔一緒にいたのはもうずっと前のことで、光景のほとんどは色褪せてしまい、ただひたすらにつきまとうピアノの音とともにわたしの心を無力感で満たした。冷たい水が足元からゆっくりせり上がってくるような焦燥感。年を経て、あやまちめいた会合を繰り返すようになると、根拠もないのになにもかもがうまくいきそうな気がしていた。わたしの向かいでコーヒーカップを口に運ぶあのひとは、微笑を浮かべてとても穏やかそうで。
携帯電話が非通知着信を告げて震えたのは、あの日からさらに一週間が経ってからだった。昼間。吉野さんの店で。
「いまどこにいるの?」
反射的にそう訊ねてしまったが、答えはたぶん最初からわかっていた。
「空港だ」
どこへ行っていたの、とか、美術館にはいけてよかった、とか、今度はいつ帰ってくるの、とか、そもそもここは兄さんにとって帰ってくる場所なの、とか。言いたいことは山のようにあった。そのすべてが文句とも哀しみとも愛情ともつかないものばかりだった。けれどもそのどれもがわたしたちにとってはすでに意味のないもののよう思える。
「何も言わずにいなくなるなんて」
「…悪かった」
兄さんの声色からは何の感情も読み取れなかった。いつだって兄さんは巧妙に隠してしまう。かくす必要のないものであっても。この人はすべてを隠して生きている。
何かを伝えようと思って、でもそのばかばかしさに気づいて黙っていた。少しだけ沈黙があった。電話の向こうで今、あのひとがどんな表情をしているかはわからないが、そのことにとりわけ心細さを感じたりはしない。面と向かい合っても同じことだろうから。
ふ、と一息つく。
「そうやって、いつか本当にわたしの前からいなくなってしまうつもりなんでしょう」
再び沈黙があった。
愛情、そしてそれに準じるすべてのもの。
それらを乗せるには電波は頼りなさすぎるように思う。かといって手紙も、視線も、体温も。そのどれも乗せるべき器には相応しくないように思う。結局はどうやって伝えるかではなく、誰に伝えるかなのだ。そばであれ電話線の向こうであれ、横たわる距離が同じことだってある。
「ちょっと会わないうちに面倒な女になったな」
揶揄する声。にいさん。呼ぶ声はかすれた。
電話線はなんの重みもなくぷつりと切れた。