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シーザーを理解するためにシーザーである必要はないという。でもきっと兄さんを理解するためには兄さんでなくてはならないと思う。手紙を書くくらいなら直接会いに行く。そんなことをいつだったか言っていたような気がする。でも、会いに行かせてくれない人も中にはいるわけで。かといってそういう人に対しても自分のポリシーは貫き通したい。 そもそも手紙なんて大嫌いだ。吐き気がする。こんなにも距離を感じるものなんてない。海の中に沈んでしまえばいいと思う。そうしたらきっと世界中の海は埋まって、もっと簡単に会いたい人に会える世界になるんだ。でもそのためにはたくさん手紙を書かなきゃいけないわけで・・・

花村花村
大海原いちめんを、ひらひらと舞いおちる白い封筒が埋めていく。そのシーンからわたしをひっぱりあげたのはよく耳に馴染む声だった。
「兵助くん?」
しばらく、ぽかんと彼の顔を見つめてしまった。まったく予想していなかった顔だ。
「そんな、怪獣をみるような目、しなくても」
ぽつりとつぶやいて、兵助くんはわたしの隣に腰掛けた。スツールがくるんと回る。その光景がわたしを完全に海面から引き戻した。
「なんで急に?」
「授業が休講になったから来たんだ。花村のバイトしてるとこ、ずっと見に行くって言ってたのに行けてなかっただろ?働いてる日かわかんなかったけど、思い切ってきてみてよかった」
「残念だけど、もう仕事上がりよ。今はまかないを食べ終わってぼうっとしていたところ」
「なんだ。そうだったんだ。またさぼってるのかと思ったよ。安心した」
からかうというよりはどちらかというと本気で保護者ぶった顔をして兵助くんは言う。妙に真面目なのだ。わたしはむっとして、でも反論することもできないのでごまかすように手元の紅茶をひとくち飲んだ。もうすっかりさめてしまっている。ほのかにかおるベルガモット。アールグレイ。
「昼ごはん、まだなんだ」
どれがおすすめなの、ときいてくる。吉野さんのサンドイッチはどれもおすすめだよ、と言いながらメニューを渡す。兵助くんは真剣に文字の列を目で追う。
途中、ふいに目を上げて、久々知くんは首を傾げた。
花村、疲れてる?」
「…そうみえる?」
「なんとなく、そんな気がしただけ」
「仕事上がりだからじゃないかな。大丈夫だよ、別に。疲れてなんかないよ。なんならこれからフランスに行くことだってできる」
フランス?なにそれ?兵助くんは予期せぬ単語についていけず少しだけ宙をにらみ、すぐにまたしょうがないなというように笑った。なにを考えたかなんてすぐにわかる。これにしようかな、とベジタブルサンドを指差す兵助くんの横顔。この人はなにも知らない。
「兵助くん」
なに、とやさしい声。この人はわたしの兄をしらない。兄と兄にまつわるすべてのかなしみをしらない。なのに、なんでこんなにもほっとするのか。こんなにも泣きたくなるのか。わからない。わからないまま、それでも言葉がのどをついてでる。
「来てくれてありがとう」
 
 
 
 
 
吉野さんの作ったサンドイッチは兵助くんのお気に召したようだった。わたしがあまり友人を連れてこないせいか、吉野さんは兵助くんをみて珍しそうに瞳を輝かせるのを隠そうともしなかった。あんなことがあった日なので、なおさらである(吉野さんはカウンター越しにわたしと兄の通話の一部始終をみていた)。小松田さんをしかる表情以外の表情はわりと出にくい人なので、初対面の兵助くんにはわからなかったようだったけれど。

おいしいサンドイッチと美味しい紅茶を堪能した兵助くんは、いつもより口数が少しだけ少なかった。なのに常に何か言おうとしているようにみえて、よくわからなかったけれどどこか奇妙な印象を受けた。疲れているのは兵助くんの方ではないのかしら、と思ったのに、最後まで訊ねるタイミングは掴めなかった。というのも、時間が経つにつれ、流砂が旅人の足を飲み込むように、兵助くんの違和感はどこかへ身を潜めてしまったからだった。

やがて、サービスです、といって、たっぷりの生クリームがのったチョコレートシフォンケーキの山がでてきた。商品用のケーキを切り出した後の、のこりくずなのだそうだが、それでもわたしたちにとってはごちそうだった。兵助くんはやはり兵助くんらしくきちんとお礼を言い、フォークできちんときりわけて食べていた。めざとい吉野さんは、ひとくちめを口に入れた瞬間、兵助くんの長いまつげが震えたのを見逃さなかったので、その後ずっと満足そうだった。兵助くんも嬉しそうだった。だからわたしも手放しに嬉しかった。

それでも、そのとろりとした甘さを口に含んだ瞬間、閉じたまぶたの裏に浮かぶのは、黒さを誇らしげにたたえるチョコレートシフォンでもなければ雪のように白い生クリームでもなく、一面の真青を埋め尽くす白い便箋なのだった。たとえ足元が崩れて、びしょぬれになりながら四方八方を取り囲む海水を呆然と眺めざるをえなかったとしても、なんとなく、今なら笑うことができるような気がした。
顔を上げれば太陽がある。あの人を乗せた飛行機の影がさすかもしれない。隣には兵助くんがいる。