彼女が暗殺一族の出であるということは、すでに同級生全員の知るところとなっていた。別に隠してないから、という彼女はあっけらかんとしたものだ。水面下で行動しない暗殺者とはどんなものだろうとぼくは考えたが、まぁ有能な彼女だったらありえるかなという気もしないでもなかった。どこかそういう雰囲気をもつ子だった。あまり多くに頓着しない。そのくせ、能力にだけは長けている。
しかし、実戦派肉体派を誇る同室の食満は、
「こそこそしてて気に喰わねぇ」
と、彼女を形容した。ぼくはふーんと言った。ふーん。不満そうな視線を向けられたところで、他に何を言えばよかったのだ。
気に喰わないとぶつぶつ言いながらも、食満と彼女はよくつるんでいた。端から見れば、戦忍志望と暗殺者予備軍のコンビというのは、将来的に実益を備えたよい関係になるだろうと思えた。しかし、お互いとくに執着している様子は見られなかった。“こそこそしていて気に喰わない”せいなのかもしれないし、違うところに原因があるのかもしれない。
兎にも角にも、彼女は暗殺一族の娘だった。なかでも毒薬を扱うのに長けていた。そして多くのことに執着しないくせして、何かを頑なに守っていた。それはとても切実な仕草だったが、ぼくにはそれが何だか理解できない。
布団の上でごろごろしていた体をいきおいよく起こし、戸口に手をかけると、「また保健室か?」と後ろから声が掛かったので、ぼくは食満の方へ振り返った。夜に保健室に行くという習慣は保健委員を務めるようになって4年経った頃についたもので、昼間できなかった薬の調合や勉強なんかをやっていた。それは当然同室の食満も承知しているものだった。だから、こうしてわざわざ口にされると奇妙な感じがした。
「明日の実習、朝早いってわかってんだろうな」
「わかってるよ」
寝てたら食満が起こしてくれるだろう?笑ってそう言えば、とたんにふんと鼻を鳴らし、
「勝手に遅刻しろ。ぜってー起こさねぇ」
とつれない返事が返ってきたので、ぼくは肩を竦めて部屋を後にした。
そうして廊下を歩いたが、実を言うとぼくの足は保健室に向かっていたわけではなかった。弁解させてもらえば、ぼくは食満の問いかけに肯定でも否定でも答えた覚えはない。
誰か殺すの?
これは薬だよ
保健室に行っても誰も来ないことはわかっていた。最近そういう日がずっと続いていた。
くのいちの長屋に足を踏み入れたのはこれが始めてではなかった。ずっと昔、一年生の頃に一度だけ例の“洗礼”を受けに、は組全員でやってきたことがあった。 すずがくのいちの洗礼を施したのは食満で、たしか痺れ薬の入った団子を食べさせていた。しかしはりきりすぎた すず自らの手で調合された毒薬は、彼女が想像していた以上の効果を発揮してしまい、哀れ食満は1週間もの間保健室から出て来れなくなった。思えばこのときから食満のつられ不運は始まっていたのかもしれない。いくらなんでもやりすぎですよ、と山本シナ先生にこっぴどく叱られながら彼女がぽつりと呟いた言葉は「加減がよくわからなかった」で、その無邪気な横顔に悪寒を覚えた少年は多かったはずだ。そうして彼女は『学園生活を円満に送る上で、絶対に係わりあいをもちたくない人物』のナンバー1に輝くこととなった。
かといって6年もの間をくのいちと関わらずに過ごすなど無理な話であり、気づけば合同演習を繰り返すうちに、ぼくは彼女と自然に係わり合いをもつようになっていた。1年も経つ頃にはすでに同じ学年のくのいちは すず一人になっており、次第に通常授業も男子生徒と肩を並べて受けるようになっていた。というのも、くのいち教室の女の子たちのほとんどは、卒業を待たずして家の都合で忍術学園を去っていく子ばかりで、ぼくらの学年は特にその傾向が顕著だったからだ。そんなわけで、くのいち教室にいるよりも男共に混じる時間の方が多くなった彼女は、かなり“手加減”を心得たようだった。しかし、食満の方は今でも洗礼について根に持っている。もちろん、負けん気の強いやつなので決して口には出さないのだけれど。と同時に、それは食満が必要以上に女性に近寄らなくなった原因にもなっているのだが、当の本人は気づいていないようだ。
にもかかわらず彼らがつるんでいるというのも、よく考えれば不思議な話である。
黙って気配を殺して(教師にばれたら大目玉だ)、記憶を頼りに すずの部屋へ向かった。くのいち長屋はぼくの記憶にあるものとかなり違っていたが、それでもなんとか すずの部屋にたどり着けたのは奇跡だと言っていい。
静かに戸をあけ、中に入ろうと一歩踏み出した足はなぜか宙をきり、落とし穴だと気づいたときにはぼくの体はまっさかさまに穴に落ちていた。大きな音を立てて、床下の湿っぽい土が風呂上りの髪と洗いたての寝巻きをむかえた。
入ってすぐのところに罠が仕掛けてあるのは忍びとしては当然のことで、そんなごく当たり前のことまで頭から吹き飛んでいたというのは驚くべきことだった。どこまで余裕を失うつもりなのか。情けなくて、恥ずかしさ紛れに頬についた土を拭っていると、穴の上からひょっこりと人の顔がのぞいた。 すずだった。
何かを頑なに守る彼女。
ぼくとは相反する道を歩むべく運命の彼女。
なのに、よりによってぼくなんかに凭れかかってきた彼女。
彼女が守ろうとしているものが何なのか、ぼくは知らない。ぼくは暗殺一族の出ではない。
(それでも、)
ぼくは思う。彼女の気持ちはわからないが、それでも、
その先の言葉はどうしたってつなげない。つなげないが、思う。大事なのはたぶんそういうことだと思う。
ずいぶん長い間、なにが起きたかわからない顔でぼくを唖然と眺めていた彼女は、思い出したかのように口をひらいた。
「…もしかして、夜這いするつもりだった?」
ぼくはちょっとの苦笑いで答える。
「お恥ずかしながら」
たちまち、純粋な驚きの視線が降り注いだ。
穴の上と下とで、しばらくお互い無言で見つめあっていたが、ついに彼女が耐え切れなくなって笑い出したので、ぼくは顔が赤くなるのがわかった。
ひとしきり笑ったあと、
「最高に似合ってないよ」
彼女がこぼす。
ごもっともです。反論のしようもございません。でも、いてもたってもいられなかったんだよ。きみに会いたかったんだ。
そう告げたら、彼女はどんな顔をするだろうか。考えながら、ぼくは穴の底で彼女の手が差し出されるのを待っている。