すでに見慣れるものとなった保健室の天井を瞳に映す。善法寺の手と舌がさんざん体中を這い回ったあとだった。時々ひきつるように吐息の塊が喉をつくくらいなもので、あとはお互いに無言である。
背中にあたる竹の硬い床。むせかえるような薬のにおい。それにまじって時折鼻をつく、不快なにおい。善法寺のこめかみにはうっすら汗がにじんでいる。いつもと同じ。
やがて、寝巻きの間から、優男然とした彼の顔からは想像もできないおぞましい肉が取り出され、足の間にあてがわれる。そういえば、善法寺は行為のとき服を脱がない。それはくだらない思いつきだった。
視界が動き始める。顔の脇に手をついた善法寺の栗色の髪が左頬をこする。断続的な浅い吐息が左耳を濡らしている。
目がさめたとき、ひどく不快な夢をみていたのは覚えていたけれど、内容はまったく思い出せなかった。今度はそのことが不快でふたたび視界を閉ざしてみたのだが、暗闇の中には一条の光すら射さない。なんの光景も浮かんでこない。わずかな欠片でも掴めはしないものかと思考をめぐらせても、行き着くのは(なぜわざわざ恐怖を蒸し返そうとしているのだろう)というさらなる不快感だけで、最後には集合時間に遅れて怒り狂う同級生の顔がいくつか浮かんできたので、気分が悪くなって布団を蹴り上げた。
(彼でも欲情するのだろうか)
はじめはそんな単純な下卑た疑問からだった。事実、口にしたら食満に思いっきりはたかれた。この男、見た目のふてぶてしさとは反対に、意外にも潔癖なのである。善法寺とは同室なのだし、仮にも年頃の男同士なのだからそういうことは話題にでないのか、でないにしてもなにかしらの行動でわかるのではないか、というようなことを尋ねれば、「知るか!」と今度こそ本気で一蹴された。比喩ではなく本当に蹴りまで入って、わたしはしばしの間脛を抱える破目になった。
「あんたはわかる。間違いなくわかる。あと仙蔵と小平太と、あとかろうじて長次と文次郎もね。でも善法寺の睦言だけはどうしても想像できない。どうしても」
「悪かったな!ていうかそんなもん想像してんじゃねぇよ!馬鹿野郎!」
食満は荒々しい声で怒鳴った。実はわたし、彼にこうして怒鳴られるのが結構好きだった。『食満に対する葛葉の扱いは犬並だ』と、涼しい顔をした誰かさんに形容されるゆえんである。つまり、わたしは彼を軽視しており、食満はそれに気づいていない。
「誰でも考えると思うけど」
「阿呆!」
「馬鹿、阿呆、ときたら次は頓馬?」
「知るか!」
「食満は考えたことないの」
「おまえまさか伊作が好きなのか」
「…それ、ずいぶん話が逸れてない?」
「別に逸れてないだろ。で、どうなんだよ」
彼の表情にはからかいの色など一筋も混じっていなかったものだから、わたしは腕を組み、そのことについておとなしく考えてみることにした。
正直なところ、わたしはあまり善法寺が好きではなかった。彼の人となりが好ましいものであるということについて否定はしない。不運であるということも特に気にはならない。ただし、違う場所で出会っていたら、の話である。
簡潔に言えば、彼は薬を使う。それも、わたし(と、わたしと同じ血を流す人たち)とは全く別の方向性で。ゆえに、彼は忍びに向いていない。
結論。『そのふたつがわたしをひどく苦い気持ちにさせる』
食満はとくに興味なさそうな様子で、(つまり腕を頭の後ろで組んで木にだらしなく凭れつつ)わたしの言葉をきいていた。口などはへの字で、心底呆れきった顔をしている。救いようがない、と言外に伝えているつもりなのだろう。
これが仙蔵であったなら、より正確な心理描写を求められていたかもしれない。彼はなによりも論理だった思考を好いていたから。しかしわたしだってよくわかっていないので、深く追求されると困ってしまう。自分でも首をかしげながら苛立ちを引きずって歩いている。
「知りたいなら、自分で確かめりゃいいじゃねぇか」
出し抜けに彼がぼそりとつぶやいたので、わたしはものすごく驚いて瞬きを忘れた。
このことを、こちらに背を向けて本を捲っている善法寺に話そうかどうか考えている。机の傍におかれた灯りが空気の流れによって時折ゆらめくものだから、そのたびに彼の栗色の髪と彼の広い背中に描かれた陰影はすみやかに色と形とを変えた。麻の寝巻き越しにも、その体躯のおうとつを示そうとしているかのようである。彼は同級生たちに比べれば明らかに線は細いが、それでも彼なりに最善の努力でもって鍛え上げられた身体は無駄がなくしなやかで、わたしはうっかりするとひたすらその稜線を目でなぞってしまう。後ろめたさを感じてしまったのは、焦燥感のほかにもうひとつ感じるものがあったからだ。
「なにを読んでいるの」
わたしは無愛想な背中に向けて声をかけたが、別に答えを求めていたわけではなかった。その証拠に、善法寺の手の中にある本が今日図書室から借りられたばかりのものであることをわたしは知っている。彼は顔だけをこちらに向けると、かろうじてききとれる程度の声で予想していた言葉の並びを口にした。どこか疲弊の滲んだ声は、こちらの虚脱感までも引き起こす。
「部屋で読めばいいのに」
「食満が…」
「食満が?」
無意図を装って、わたしはきいた。陰鬱な前髪にかくされて、善法寺の表情は窺い知れない。逡巡する気配と、沈黙だけがあった。
それからしばらくして、本の閉じられる音が薬の匂いのたちこめる室内を小さく打った。続いて灯りが落とされる。
(本なんて読んでなかったくせに)
暗闇の中、喉もとまででかけていた言葉を呑み込んで彼を見上げれば、手を掴まれて腕の中へと引き寄せられる。はやい鼓動が薄い寝巻き越しに伝わってきて、なんだか笑ってしまった。
わたしはそんな自分をずいぶん遠くから眺めているような気がしている。
心を騒ぎ立てる薬のにおいと、先ほどまでの行為を感じさせる不快なにおいとが漂っていた。倦怠感がひとまず体から立ち去ったころ、ふいに一定の律動を繰り返す硬質な音がきこえてきた。どうも善法寺が薬草をすり鉢でつぶしている音らしい。わたしは冷たい床に身を横たえたまま、しばらくの間その規則的な音に耳を傾けていた。
やがて、善法寺と目が合った。
「誰か殺すの?」
わたしがきくと、彼は毅然とした顔で、
「これは薬だよ」
と返した。
いつのまにやら灯したらしい、ぼうやりと照らす橙の光の中を、砕かれたばかりの薬の粉末がわずかに舞っている。
わたしは体を起こし、身なりをととのえると立ち上がった。
「使い方をあやまれば毒にもなるけどね。でも、これは薬だよ」
後ろから彼の声が追いかけるようにきこえてきた。口調は穏やかだったが、はたして善法寺は笑っていたのだろうか。彼は後悔しているのかもしれない。確かめる前に障子は閉めてしまった。
足元は覚束ない。廊下をふらついて歩きながら、薬にもなる毒と毒にもなる薬の違いはどんなだろうと考えた。