数え切れないほどのならず者が乱暴に扱ってきたであろうその扉はみるからに汚れていて、いつ壊れてもおかしくない状態でぎしぎしと蝶番を軋ませている。テトラは、できれば触らずにすませたいという思いをなんとか抑え込みつつ、その扉を押して店内へ入った。店内は酒気と煙草と喧騒のたちこめる無法地帯だ。誰もが陽気そうな顔をしているものの、血の気の多い客の誰かがいつ暴れだしてもおかしくないという奇妙な緊張感が充満している。客は全員が全員、体のどこかしらに金属質のきらめきを隠し持っていた。顔にまとわりついてくる強い煙草のけむりに顔をしかめながら、テトラはまっすぐにカウンターへ向かう。
隣の男と談笑していたひとりの大男が、テトラに気づいて小さく手を上げる。そうして空いている方の席を彼女にすすめたが、テトラは丁重に断った。男はテトラたちが身を寄せている船の船長だった。彼はテトラの抱える鞄の存在にようやく気づいて、ああ、と頷いた。
「ああ…そういえばそうだったな」
「あら。忘れてくれていたのなら、あのまま船で寝ていればよかった。ねえ、船旅って思っていたより疲れるわね」
「わかった。悪かった。やってくれ。俺がボスに首切られちまう」
「手はずはちゃんと覚えている?」
「馬鹿にすんじゃねえよ。どっちにしろあんたたちが仕事を終えるまで俺達の出る幕はねえんだろ。はなから俺たちはここで飲んでるって話だったじゃねえか」
「それは失礼。ひどく酔っているようにみえたから」
「おいおい、こんなのは水みたいなもんだぜ」
男は笑って、大仰な仕草でグラスの中身を一気に干してみせる。テトラはあきれているのが伝わらないといいと思いながら男の瞳がいたずらっぽく光るのを見ていた。
「惚れたか?」
「冗談。やっぱり相当酔ってるんじゃないの。その頭が酒でびしょぬれのモップみたいになる前にあの人がどこにいるか教えてもらえないかしら」
「あの人、ね。そんなお上品な言葉の全く似合わないあんたの相棒なら、あっちにいるぜ。ひとりで」
なにか含ませたつもりなのか、最後の部分には妙なイントネーションが置かれていた。テトラはそれに気づいていたが、あえてそれには触れずに男の指差した方向に顔を向ける。よどんだ空間のうち、ひときわ汚れた沈殿がたまるような一角に、見慣れた後姿が見えた。そうせまくはないテーブルをたったひとりで占拠して煙草を燻らせている。彼には何物をも拒絶する雰囲気があった。そのせいでどこへいっても他の人間は自然と彼から遠のいていく。もはや見慣れた光景であった。
「あいつ…いつもあんな感じなのか?」
新しく頼んだグラスを傾けながら、男があきれたようにつぶやく。テトラは肩を竦めて答えた。このやりとりもすでに慣れたものだ。
「いくらなんでもありゃ吸いすぎだろ。すぐにおっちんじまう」
彼女は目を丸くして男を見上げた。
「見かけによらず優しいのね」
うるせえな、と男はグラスの中身をぐいとあおる。
「あんた、言ってやれよ。相棒だろ」
「そうねぇ…」
「なんだ、駄々っ子なのか。あんたの言うことはききそうな気がしたんだがな」
今日はよく驚くか、もしくはずっと驚いている日であるらしい。彼女は超絶なスピードでグラスを傾ける目の前の男と、ひたすら灰皿にフィルターの山を作り続ける奥の男を見比べた後、作り物ではない微笑をわずかに浮かべた。
「下手したらここもドンパチの会場になるわ。胃に穴が空いて二度とアルコールが楽しめない身体になりたくなかったら、すこしは酔いをさましておくことね。こっちとしても船を乗りかえるのは嫌だし」
イタリア行きの船なんてただでさえ少なそうなのに、と港の様子を思い浮かべながら彼女はぼやいた。すると男は笑って、これみよがしに新しい酒をグラスに注ぐ。
「いい仕事をする二人組だっていうんで、ボスはあんたらを雇ったんだぜ。下手なんておこらねえだろ」
「楽観的なのね」
「信頼といってほしいな。マフィアの誇りだぜ。俺はファミリーでなくても仕事仲間は信頼することにしてる。うまい酒のためにもな」
テトラは苦笑しながら手を振ると、奥にいる彼のもとへ向かった。
暗く淀んだ空気の下で、自身も汚れた空気の生成に貢献している男は、後ろから近づいてくるテトラに気づいているにちがいなかったが、にも関わらず振り向こうとはしなかった。昔から奇人変人変態と、あらんかぎりの罵倒を総なめにしていた彼だったが、決してここまで人を寄せ付けない雰囲気を纏っていたわけではなかった。むしろ自分を毛嫌いして寄って来ない人間をわざわざ嫌がらせのように追いかけ回すという、壮絶にひねくれた人懐こさを持った男として名を馳せていた。他人からすれば迷惑以外の何ものでもないその習性によって彼はしょっちゅう殴り飛ばされたものだ。こめかみに血管を浮かべるのはいつだってあの深い蒼の巻き毛を持った男だった。彼は自分の上に馬乗りになって拳を振り上げる男の眼鏡越しの目を、セックスの最中にするような恍惚とした表情で見上げていた。どっちが攻撃してる側だかわかりゃしない、とは誰の言葉だったか。口のはしに血を滲ませて笑う男をみて、間違いなくこの男は退屈という単語とは生涯無縁だろう、とテトラは感じたものだった。
あれから十年の時が流れていた。彼のまわりにいた人物は、特にお気に入りだった青髪の男を含めて全員この世を去っていた。正確に言えばテトラと彼以外の全員なのだが、さらに正確に言えばもともとテトラは彼のチームに所属していたとはいえなかった。イタリアギャングの、とりわけ悪名高い殺し屋集団の生き残りは今や彼一人になっていた。
彼はローマの駅で一命を取りとめた。しかしそうして舞い込んできた時間は彼にとっては手に余るものにしかすぎなかったようだ。いつしか彼は時間を埋めるように煙草を吸うようになった。もともと愛煙家とも嫌煙家ともつかない微妙な立場にいた彼が、である。代わりに食べ物の摂取量は極端に減った。なんでも舌を毒蛇に噛まれた後遺症で味覚があまり働かなくなってしまったのだそうだ。食べる代わりに煙を摂取するのだと彼はいつだったか口を歪めて言いはった。埋めているものが時間であれ味覚であれ、今の彼はひどく刹那的に映った。生来のマゾでありセルフサドであった彼のその自虐性は、かつては前向きでどこか清々しかったのだが。 テトラは彼の前にまわりこんで、彼の名前を呼んだ。彼はことさらゆっくりとした動作で落としていた視線を上げると、形のいい唇を真横に引きつらせて笑った。
「悪魔がみえる」
着地地点の定まらない声色で言っては、短くなった煙草を灰皿に押し付ける。
「悪かったわね。天使じゃあなくて」
「あんた、天使ってがらかよ」
メローネはさもおかしそうに声を上げて笑う。人間とはうまくできているもので、嫌なところはそう簡単には変わらない。ふと、テトラはテーブルの上に置かれたグラスをみとめて思わず眉をしかめた。
「のんでるの?」
「あんたが寝こけてるから今日の仕事はなくなったのかと思ったんだ」
「仮眠を取るって言わなかった?目が覚めて誰もいなかったときの驚きを、あなたに少しでも味わわせてあげたい」
なんにせよ、とテトラはためいきをつく。
「それじゃあ仕事にならないわね。今日はわたしひとりで行くわ。そんなに難しいものでもないしね」
そう言ってテトラは踵を返す。足を一歩踏み出そうとしたところでいきなり肩をつかまれて、彼女はたたらを踏んだ。抱えた鞄が金属質な音を立てる。恨みを込めた視線を向ければ、メローネがつかんだ肩を支えに立ち上がった。決して重い体重ではないのだが、わざとらしく力を入れてくるものだから、彼女はたちまち姿勢を崩した。
「誰が行かないって言った?あんた一人で片付く仕事なら、おれにちょっとくらい酒が入ってたって同じってことだろう」
メローネはさらに笑みを深くしている。しかしどこか中身がなく見えるのは、気のせいだろうか。最近その傾向はますます強くなっている。メローネは彼女の肩にかけられていた鞄をやにわに取り上げると、酒場内の喧騒には目もくれず、まっすぐ出口へ向かっていった。テトラは彼の蜂蜜色の後ろ頭が扉の向こうへ消えていくのをじっと見つめていた。
ふと、強い視線を感じて頭をめぐらせると、先ほどまで話していた男が露骨にテトラの方を観察していた。目が合うと、何がおかしいのか、口を曲げてあからさまに笑う。テトラはそれをみて、小首を傾げた。
「わたしたちの見ている世界と、わたしたち以外の見ている世界は、別物なのね」
声は男のところまでは届かない。彼がうろんげに眉をひそめるのが見えた。
テトラは無言でメローネの後を追った。彼は入り口を出てすぐのところで待っていた。探すまでもなかった。なのにいつだって見失っているような気分にさせられる。彼を、ではない。では、なにを、だろうか。
「悪魔が一緒だと心強いね」
メローネは口を歪めて笑う。マスクを着けなくなった顔。いつからか姿を消した露出の高い服。代わりに常備薬のように煙草を持ち歩いている。そして彼のうしろには機械じみた生物が姿を現すことがなくなった。テトラも同じだった。スタンドにはもう頼らないと、二人で全てをなくしたときに決めたのだ。
「悪いけど、今日はわたし天使でもいいと思うわ」
「へぇ?」
「だって今日の銃はイスラエル製だもの」
メローネはすこし考えたあと、喉の奥をくつくつと鳴らす。そして、
「あんたのそういうとこ、おれベリッシモ好きだよ」
そう言ってわらった。