(しあわせな背中)
「本当に行ってしまうんですね」
テーブルを挟んで向こう側、菊ちゃんがまるで今生の別れみたいに重々しく言うものだから、私は思わず吹きだしてしまった。しばらく口にすることもないだろうと選んだ和食屋さんで、私たちはおそばをすすっていた。
「たかが数年のことじゃないの」
「それはそうですが…」
菊ちゃんはわたしよりも年上で、なのに私に対して丁寧な敬語で話した。いいのに、といえば、癖なので、とにべもなく返される。
菊ちゃんは遠い親戚で、母方の筋のなにがしからしいのだけれど、誰に聞いても要領をえないので、相当遠い血筋なのだろうということしかわからなかった。かといって家系図をひっぱりだしてくるほど自分たちの出自に情熱を感じていたわけでもないので、髪の毛に引っかかった釣針を眺めるような気持ちで菊ちゃんとの付き合いは続けられていた。家が近所だったのと、両親が共働きだったのとで小さい頃から菊ちゃんの家で夜を過ごすことが多かった。
娘がはるばる海外へ行くというのに実の両親が見送りにこないのも実はそれが理由で、旅立ちが独りなのはあんまりです、と憤慨した菊ちゃんが彼らに代わって空港まで来てくれた、というわけだ。
お母さん。類まれなる才能とともにこの世に生まれおち、世界中の数多のバレエコンクールの賞を総なめにしたお母さん。膝の故障のために文字通り血を吐きながらバレエの道を断念してからは、すぐさま死を決意したらしい。踊る喜びのない人生なんて。ぼろぼろだったお母さんを死の海から救い上げたのはお父さんだった。「あれは奇跡だったわ」とふたりは今でもうっとりと言う。そうして愛の結晶として生まれたのが私だった。引退後バレエの先生になっていた彼女は、もちろん潰えた夢を娘に託そうとやっきになった。でも残念なことに、私にはバレエの才能云々よりもまず、運動神経とか音感とかいうものが破滅的に欠如していた。
わたしは幼すぎて覚えていないけれど、お母さんは相当落胆したのだと思う。それでも、今では有望な門下生を見つけて魂を注いでいるし、そのおかげで私は本当にやりたいことを勝手気ままにやることができているし、結果的には良かったのではないかと思っている。目的は違うにせよ、お母さんが一番好きな国であるロシアに留学したいと言ったときには、二人とも飛び上がらんばかりに喜んで賛成してくれたし。
ただ、菊ちゃんだけは違っていた。この日まで幾度となく繰り返された口論をいまさら蒸し返す気力もないのでお互い口数は少なかったが、彼がいまだ私の留学に納得できずにいるのは火を見るより明らかだった。菊ちゃんは、私が両親への償いのつもりで留学すると思っているのだ。
菊ちゃんはとてもやさしい。
食事を済ませると、時間もないのですぐにゲートに向かった。
「あのね、100年も前ならともかくとして、インターネットも電話もあるこの時代にそんな顔しないでよ」
それはそうなんですが、と菊ちゃんはやはり浮かない顔をしている。
「ちゃんとメール下さいね」
「もちろん」
「では」
「うん」
ありがとう、とスーツケースを受け取る。ガラガラと引っ張って、長い人の列に加わる。
「葛葉さん」
振り返ると、菊ちゃんが何か言いたそうな顔をしてこちらを見ていた。言うべきかどうか迷っているようにも、どう言葉にするか迷っているようにもみえた。何人もの人が迷惑そうに私を追い越してゲートを通り抜けていく。
長い長い逡巡の末、ようやく菊ちゃんの口が動く。
「どーーーーんっ!!」
まずはじめに感じたのは鼻をくすぐるあたたかいかおり。そして次に薄膜の張った白い天井が目に入る。問題の重みを体幹部に感じたのは不思議なことに一番最後だった。
10年くらい水の底に横たわっていたような感覚がする。頭がすっかり水を吸ってしまったような。ぼんやりしていると、視界にフェリクスがひょっこりとのぞいた。
「葛葉、起きた?」
悪びれもなくいたずらっぽい表情で笑う。
「ばか!フェリクス!」
続いて耳をついたのは慌てふためいた声で、頭をめぐらせるとエプロン姿でおたまを握ったトーリスがフェリクスの襟をつかんでいた。
「葛葉を起こせって言ったのトーリスじゃんよー」
「普通に起こせばいいじゃないか!もう、なんでこんな子供みたいなことするの!」
フェリクスが引っぺがされ、途端に体が軽くなる。するとたちまちじくじくと身体が痛み出した。
うええ、とわざとらしく胃をさすると、ぼろぼろと涙がこぼれた。トーリスがさらに心配するだろうと分かっていたので、葛葉はうつぶせになって顔を隠した。なんで泣いているのかはわからなかった。