(マカロンと死体)
本当にこいつなのか、と遠くの方で声が聞こえた。昨日の奴と全然違うじゃねぇか。アンタたち、あたしの念を疑うの。疑てないね。三人とも、やめなよ。ほらほら子爵さまが目を覚ますよ。
テトラは目をうっすらと開いて、睫毛の隙間から膜がかかったようにぼやけている視界を覗いた。
頭の裏に響く鈍痛を認識すると、次第に光景は輪郭を持って脳に届く。
豪華な調度品のしつらえられた室内は、どこかの貴族の屋敷のようだ。右手には大きな暖炉が見えるので、応接間だろう。目の前にはやはり一見して高級品とわかるテーブルが置かれていたが、しかしその上には明らかにこの場に似つかわしくない缶ジュースやら缶ビールやらスナック菓子やらが乱雑に散らばっている。
「やあ、お目覚めだね」
テーブルをぐるりと囲むソファのひとつにゆったりと腰掛けていた呆れるほどの美少年が、テトラを見てにっこりと笑った。じんじんと痛む頭をふって見下ろせば、豪奢な椅子に縛り付けられている。無駄だとは思っても、一応試しに念を発動させるべくオーラを操作してみたが、そもそもオーラの流れを感じられなかった。
「おまえ、自分の状況わかてるか」
気づけば傍らにあの小男が気配もなく突っ立っていて、憎憎しげにこちらを見下ろしていた。テトラが無言で彼の瞳を見返していると、敵意と取られたのか小男のまとうオーラが静かに熱をおび始め、すると、やめなよ、とまた違う方向から制止の声が入る。どこかの国の民族衣装に身を包んだ少女が、腕組みをしてドアの入り口のところにもたれていた。
「今回の目的はアンタの好きな拷問じゃない」
「でもこいつ、気に喰わないね」
「せめて団長が来るまでは待ってなよー」
今度はまたすぐそばで妙に間延びした声が聞こえる。本気でとめる気があるのかないのか、暖炉の上に置かれていたガトースタンドからひとつマカロンをつまむと、これおいしい、などと呟いている。ついでに彼女の足元でひとりの人間が絨毯に赤い染みを作って絶命しているのも目に入ったが、こちらは気にしないでおく。気を失ってから今に至るまでのいきさつなら簡単に想像できたし、金持ちがひとり減ったくらいで世界が終わるとも思えない。無知が罪であるならば、無力もまた、罪なのだ。
少しすると声を聞きつけたのか、例のオールバック男が室内に入ってきて、テトラが目を覚ましているのを見つけて薄っぺらな笑みを浮かべた。
「覚えていると思うが、」
低く、人を威圧する声は、カフェできいたものとは明らかに質が違っていて、テトラは眉をひそめる。
「ひとつ聞きたいことがある」
「大体予想はついている」
「もちろん、ローズマリーのことだ」
テトラは肩をすくめた。
ローズマリー。それは幻影旅団、ゾルディック家と並んで高名な殺し屋の名前だった。しかしそれは殺しの技術という点で高名だったわけではなく、金さえ積めばどんな殺しでも引き受けるその無節操さと、いつどこでも殺しを行う神出鬼没さにあった。そして一番大切なことに、誰もその正体を知らず、また奇妙なことに、彼、あるいは彼女には、賞金がかけられていなかった。
ローズマリーは個人ではなく集団であるというのが世間の見解だったが、それにしても誰もその姿を見たものはいない。さらに不可解なことには、殺し屋の中には確かにローズマリーを殺したと豪語する者も何人かいるということだった。しかしローズマリーの名前による暗殺は依然として増える一方であったので、世間はこの殺し屋集団を、恐れつつ、天災のように容認するようになっているのだった。
「お前がローズマリーか?」
「言えない」
テトラは団長と呼ばれた男を睨みつけた。
団長はうっすらと笑うと、「うん、予想通りの反応だ」、と満足そうである。
「前にもね、一度、ローズマリーらしい男を捕まえたことがあるんだ。こっちの標的を横取りされてね」
そこで彼はそこではじめて気づいたかのように、少しだけ瞬きをした。
「ローズマリーは殺しだけじゃなくて盗みも請け負うんだな」
テトラは無言でおもしろそうな表情の彼をじっと見ている。
「まあそれで、そのときは拷問で口を割らそうとしたんだが、『わかった、言う』と叫んだ瞬間に、そいつは絶命してしまってね。俺たちがやったんじゃない。なにかの念が働いたんだろう。な、そうだろう?」
男はテトラに問うてきたが、語調には確信が息づいていたので、彼女はその問いには答えなかった。
「だから、今回はちゃんと連れてきたんだ」
パク、と彼が呼ぶと、それまでソファに腰掛けていた女が立ち上がって、テトラの方へ近づいてくる。彼女は胸の大きく開いたスーツを着ていて、そこから湧き出る色気を隠そうともしない。歩き方も男を挑発するような艶かしさをたたえている。無意識のうちに嫌悪感を露にしていたらしく、女は不快そうに紅をのせた口元を歪めた。
「フェイタン、確かにこの男は気に喰わないわ」
テトラはむっ、と女を睨みつける。
そうしてわずかに持ち上げられた喉元にするりと細い手が纏わりつき、爪を立てた。
「さあ、教えてもらうわよ」