(隔てとつながり)
大分肌寒くなってきた。夜はもちろんのこと、昼間からすでにカーディガンを羽織るようになったので、雪が寒空をちらつくのももう間近だ。フェリクスは赤いマフラーと手袋を用意しているし、トーリスも家の防寒の用意に余念がない。空が普段よりも透き通って見えるので冬は好きだった。
たちこめる空の下、今日も収穫なし、と胸中で歌うように繰り返しながら葛葉は帰路についていた。これから先、部屋を見つけるのはさらに難しくなるだろう。最近では葛葉もほとんどあきらめていて、寮に空室がでる来年度まで借り暮らしを続ける覚悟を決めつつあった。彼らと過ごせば過ごすほど居心地のよさを感じているのもまた事実で、費用も安いし夕飯つきだし、骨を折って他の住居を探すことに価値を見出せなくなっていた。
今日は珍しくトーリスもフェリクスも出かけることになっている。フェリクスはポーランド人の集まるパーティーに行き、トーリスは知人の家に顔を出すという。ひとりきりの夕飯は久しぶりで、居候をはじめる前はどんな食生活を送っていたか、葛葉はすでに忘れつつあった。思い出したところで、一日分の食事をわざわざ作るのも億劫なので、今晩は簡単にサンドイッチですませることに決める。トーリスはきゅうりの塩漬けとハムとチーズを冷蔵庫に欠かしたことがない。葛葉はパン屋を出ると、石畳の上を鼻歌を歌いながら歩いた。
曲がり角を曲がって家に続く路地に入った途端、すぐ目に入ったのが歩道に横付けされた車だった。ザポロージェツ。家の目の前にとまっていたので、妙に視線を引いたのだ。窓はスモークになっているので中は見えない。でもなぜか、中に人が乗っていることには確信があった。
小走りに横を抜け、アパートに続く階段をのぼる。扉に手をかけたところで、出てくるトーリスと鉢合わせた。あやうくぶつかりそうになり、二人そろって声を上げる。
「どうしたの、そんな急いで」
「ごめん、ちゃんと前、見てなかった」
一歩下がり、小さく息をつく。
「トーリスは?これから出かけるの?」
「うん。迎えに来てもらえることになってるんだけど、」
「トーリス」
きいたことのない声が響いた。トーリスの視線を追う形で顔を動かすと、先ほどのザポロージェツからひとりの男性が顔を出している。
「そのこ、だぁれ?」
男性は、にこやかに笑っていた。典型的なスラヴ系の顔立ちだ。プラチナに近いブロンドは遠目からもきらきらと輝きを放ってみえる。
「ええと、わけあってうちに居候している子です」
「はじめまして。葛葉・花村です。日本からきました」
車のそばまで寄って自己紹介をすると、彼は面白そうに葛葉を眺めた。「へぇ」
「初耳だなぁ」
ものすごくおっとりと話す人だ、と葛葉は思った。
「葛葉、この方はイヴァンさん」
「イヴァン・ブラギンスキだよ。よろしくね」
「よろしくお願いします。もしかして今日お訪ねする家って、」
「そう、イヴァンさんの家だよ」
「時々ね、みんなを集めて食事会を開いてるんだよ」
「…みんな?」
「あれ、トーリス、話してないの?」
葛葉とトーリスを見比べて、イヴァンは首を傾げた。そのとき彼が愉快そうな表情を浮かべていたこと、そして対照的にトーリスの顔が少しこわばったことに、戸惑っていた葛葉が気づくことはなかった。
「トーリスは子供の頃、ぼくの家に住んでいたんだよ」