(フレスコと別れ地)
あの日テトラは、ひとつ大切なものをなくし、ふたつ大切なものをなくし、結果たくさんのものを失ったが、それが最終的にいくつになったのかはわからなかった。そうして彼女の人生は彼女以外の何者かの所有物となり、唯一の血縁者を失った彼女は一人ぼっちになった。一人ぼっちだったが、しかし、頼れるものなどなく独り、闇の世界でもまれていても、いつも背後に女の気配を欠いたことはなかった。いつでも女の細く白い指が、喉にまとわりついていた。孤独は時として自由と同義語になることもあるが、彼女にとってはその限りではなかった。自分ではない誰かの体を借りて生きている、そんな気さえしていた。
テトラは久しぶりにぼんやりと昔のことを思い出していた。自分の人生が自分のものではないと錯覚することは今に始まったことではないが、それにしたって最近のこの流されっぷりはあんまりだと思う。自分自身がまったく状況についていけていないわ、と長いため息をついてちらりとななめ横、わずかに下方に視線をやれば、全く邪気のない眼鏡越しの視線とぶつかる。前に顔を戻せば、人ごみの中からまっすぐこちらへ向かってくる少年が、手にしたチケットを示してにっこりと笑った。
「その様子だと、いい便がとれたんだね」
「うん、もちろん。でもあんまり時間がないんだ。すぐホームに行こう」
オペラ座ほどとは言わないが、それなりに歴史のある、それ自体で観光名所となっている鉄道駅である。高い天井にはやはりこの国の創世神話のフレスコ画が描かれていて、いやでも宗教の支配を感じるのだった。はじめは感嘆していたテトラだったが、こうどこへいっても出会うのでは、多少の辟易も仕方がなかった。幼い頃から染み付いた宗教心があって始めて、この国を心から楽しめるのだろう。出国するにはちょうどいい、潮時だ、とテトラは感じる。
敬虔な信者には厳かな涙を。無骨な異邦人には少しの無力感を。
「シャル、この列車じゃ反対方向にいっちゃうよ」
「いっけね、ホーム間違えた!」
この場にはあまり似つかわしくない、ひどく能天気な声が聞こえて、テトラは頭を戻した。
「やば…急がないと間に合わないや」
「一本向こうみたい…ジャンプすればすぐだよ」
「だめだって。今回はあんまり目立っちゃいけないって団長に言われただろ」
「あ、そっか」
「走ろう」
どたばたと、しかし常人にはなかなか難しい走行速度でもと来た道を戻りだしたシャルナークとシズクにテトラは無言で続いた。
水面下での行動を主とする彼女から言わせれば、すでに目立たずにはいられないメンバーである。金髪碧眼、紅顔の美少年をそのまま体現したかのようなシャルナークは歩くだけで誰もが振り返るし、ましてや慌ただしく走っていればなおさらだった。シズクはシズクで愛らしい外見をしている上に、行動がいちいち奇抜なのでいやでも人の目を引く。要は存在感がありすぎるのだ。存在感は他人の深層心理により大きな足跡を残す。
前途多難。
テトラは今日何度目かになるため息をついたが、そんな彼女にも同じく人々の視線が集まっていることに、自身では気づいていなかった。もっとも、まったく意に介さない様子でいるのがなおさら人の目を惹きつけているともいえる。
彼女はそっと自分の頬に手を当てた。久しぶりでとても懐かしいはずなのだが、その無防備さは絶えず焦りと不安感を引き連れる。
「あともうひとつ条件追加だ。姿を元に戻せ。男の姿から女の声が聞こえてくるというのは、お前が想像している以上に、気持ち悪い」
テトラは上を見上げた。といっても、あるのは天井ばかりで、時を同じくして飛び立ったやつらの乗る飛行船が見えるわけではないのだけれど。