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(横にだけ首をふる)
 
 
昨晩、雪は吹き荒れる風と共に一晩中振り続けていたが、目覚まし時計が鳴る頃にはほぼ鎮まっていた。窓を叩きつける風の音で半ば催眠状態に陥り、それに導かれるようにしてやってきた眠りはあまり気持ちの良いものではなく、葛葉は朦朧とした頭を抱えながら着替えを済ませ、洗顔料で丁寧に顔を洗い、居間へ向かった。途中、キッチンに寄ってコーヒーを沸かす。
暖炉の燃える居間では、すでに起床していたイヴァンが新聞を広げていた。新聞から顔を上げ、にこやかにあいさつをするイヴァンを見ていつも思うのは、なぜこの人は毎晩浴びるようにウォトカを飲むくせにこんなに朝に強いのだろうかということだった。考えたところで答えはわかりきっているのだが。

隣のソファにこしかけ、葛葉はコーヒーを飲んだ。何かを読んでいる時、イヴァンは雑音がするのを嫌うので、テレビは点いていない。
休日の朝、頭が完全に覚醒するまで居間でコーヒーを飲みながら過ごすのは、この屋敷にやってきていつしか始まった習慣だった。はじめの頃はイヴァンが迷惑そうな顔をしたらすぐにでも退散しようと彼の顔色を注意深く窺っていたが、うるさくしなければ特に問題はないことがわかり、遠慮せず足を運ぶようになった。彼は新聞を読む合間にとりとめもなく葛葉と会話を交わし、読み終わればすぐ自室に引き上げるか出掛けるかしてしまう。淡泊といえなくもないが、いまだイヴァンに対して緊張感を拭いきれない葛葉にはほどよい気楽さだった。

なのにその日は少し違っていた。どうしてそうなったのかは定かではないが、とにかくプーシキン美術館の話になっていた。葛葉がまだ足を運んだことがないというと、イヴァンはちょっと驚いたような顔を作った。
「こんなに長くモスクワにいるのに?」
「行こうかという話になったことはあるんですが…フェリクスがそういう場所に耐えられそうになかったので」
彼はそれから、ちらりと時計を見た。そしてさらりと言う。「じゃあ、行こうか」
「今日?これからですか?」
「そうだよ」
有無を言わせない口調は、葛葉を頷かせるには十分だった。用事がないからよかったが、あったとしても断ることはできなかっただろう。
一方で、準備してくるね、と言って立ち上がったイヴァンは気のせいか少し機嫌がいいように見える。
 
 
 
***
 
 
 

昨日のそんな出来事をかいつまんで話すと、トーリスはぽかんと呆気にとられたような顔をした。
「それで?」
トーリスは言った。それで?葛葉は頭の中で繰り返す。
「それからメトロに乗ってプーシキン美術館に行ったの。わたしの好きなルノワールがたくさんあった。イヴァンさんは西欧絵画よりもイコンの方が好きだと言っていたけど。広すぎて全部見ようとすると何年もかかるというから、お腹がすいたころに切り上げて近くのカフェで昼食をとったわ。そのあと街をぶらぶらして、屋台でアイスを買ってもらった」
「アイス?」
「スタカンチク。氷点下で食べるアイスって、あったかく感じるのね」
それで全部よ、と言いながら両手を軽く挙げて見せたが、トーリスは何も言わなかった。驚いているようにも、深く感動しているようにも見える。軽くあいている口を眺めていても、言葉は一向に綴られず、葛葉は手持無沙汰を紛らわすように手元の紅茶に口をつけた。
昼。大学の食堂で、葛葉とトーリスはとりとめもなく昼食後のひと時を過ごしていた。
「随分、イヴァンさんとうまくやってるみたいだね」
信じられない、といった様子なので、葛葉はとっさに眉をひそめてしまった。気づいたトーリスは慌てて、変な意味じゃないんだ、と付け加えたが、それでも違和感は拭えなかった。
葛葉が、っていうんじゃなくて。イヴァンさんがそんな風に人と接するなんて知らなかったから」
「…そうなの?」
「うん」
では昔はどうだったのか。そう続けるより先に、変わったのかな、とトーリスはぽつりと呟いた。
トーリスが、そしてエドァルドとライヴィスが、イヴァンの家で共に暮らしていた理由。そして彼らとイヴァンの間の奇妙なつながり。彼らが抱いているのは親愛なのか畏怖なのか。理解しようとするにつれ輪郭は失われる。尋ねれば返ってくるのは曖昧なはぐらかしとわかっていても、何度きいたか知らなかった。
イヴァンの家に住むと決まって以来、彼が口を閉ざすことは多くなった。そのくせ強引に反対することもなければ、心配そうな表情を消すこともしない。過去についてはもちろん一切口にしないものだから、葛葉もまるで意地を張る子供のようになってしまい、初雪が宙を舞いだすよりも早くイヴァンの屋敷の扉を叩いていた。
彼らについて考えを巡らせていると、頭上から声がかかった。
「まじありえんしー」
げっそりした顔のフェリクスだった。
「何もあそこまで怒らなくてもよくない?昼ごはん食べ損ねるかと思ったしー」
「マクシム・ペトローヴィチ教授は君のためを思って怒ってるんだよ」
「そうよ、フェリクス」
「えーでもー」
「少しは反省しなさい」
前回、フェリクスの出した課題のできはかなり悪かった。というのも、フェリクスは提出日の前日まで課題のあることをすっかり忘れていたからだった。親身になって怒っているトーリスには悪いが、フェリクスらしいな、と葛葉は思う。
そういえば、フェリクスはイヴァンの家に滞在していたのだろうか。
疑問は言葉にするタイミングを逃し、いとも簡単に宙に消えた。