モスクワは涙を信じない1

*APHの現代風パロディー名前変換小説です。
架空のどこかしらが舞台のお話です。
実在するあらゆるものとは無関係です。
国の様子、および料理・銃など小道具の知識は趣味の範囲をでません。

 
 
(ペーソス)
軽く水切りをしたカッテージチーズに、卵、はちみつ、小麦粉。それに、絶対にいれてね、と念を押されたシナモンもざっとふる。大きなボウルの中で混ぜあわせ、ようやくなめらかになった頃にはフライパンもほどよくあたたまっている。落としたバターの中に生地を流し込む。
「じっくり焼いてね。焦がしたらだめだよ」
頭のすみで声が響く。ふつふつといいにおいがしてきたところでひっくり返し、さらに待つこと数分。両面にほんのり焼き色がついたところで皿にあける。
もくもくとただひたすらに繰り返す。たくさん食べたい、保存も利くし、おやつにもなるから、と言われたのを真に受け、冷蔵庫にある材料を総動員して作ったスィルニキは、積み上げたらえらいことになった。二枚ずつ別の皿にとり、暖房の届かない寒く長い廊下を小走りで駆け抜け、食堂まで持っていくと、部屋の奥、長テーブルの一番向こうの、暖炉の火床に一番近い席ですでにこの屋敷の主人は待ち構えていた。
「やぁ、いいにおいだね」
 
 
 
スィルニキが食べたいなぁ。
ことの始まりは、彼のこの一言だった。
「…なんですって?」
机の両脇に積み上げた資料の山に頭をつっこみ、露和辞書片手に課題と奮闘していた昨日の夜のこと。形式的なノックとともにあいた扉の間からひょっこり顔を出し、彼は無邪気に言い放ったのだ。
「今からですか?」
スィルニキがこの国の料理名であることは知っていたが、反射的に確認した時計は夜11時をさしていた。
「まさかぁ。さすがのぼくでも、こんな夜中には食べられないよ。明日のお昼に、ってことだよ」
明日は日曜日で、お手伝いのニーナが来ない日だった。彼女が休む日は週に何日あって、そういうとき、葛葉はこの屋敷の食事を作ることになっている。葛葉がこの屋敷の一部屋を借りるにあたって決めた、数少ない契約のひとつだった。
「作ったことないんですけど」
「レシピならキッチンのどこかにあったはずだよ」
「でも、いきなりでうまく作れるかどうか…」
「やだなぁ、そんなの、」
ふふっ、とおっとり笑う。

「うまく作ってくれないと、困るよ」

じゃあよろしくねー、と、先ほどとは打って変わった明るい言葉を残して扉は閉じられる。築何十年だか何百年だか知らない、徒に月日を重ねたこの屋敷の扉はひとつひとつが重厚で、開閉の度にまるで地獄の門の中に閉じ込められたような心地にさせられるのだ。
足音が遠ざかり、すっかり静かになったところで、はじめて廊下の冷気が勉強机まで届き、葛葉は背筋をぞわりとふるわせた。
 
 
 
彼はサワークリームが好きで、なんであれたっぷりつけて食べるのが好きだった。今回も例外ではなく、彼はスィルニキにたっぷりのサワークリームとこけもものジャムをのせた。葛葉はカロリー表示を見てしまって以来少量を心がけるようにしている。彼女はちょっとのサワークリームとレーズンをのせてからナイフを入れた。
「うん、おいしいね」
「…ありがとうございます」
立派な成人男性が嬉しそうに甘いものを口に運ぶ姿はいまだに違和感がある。例外も多いとはいえ、日本では年を重ねるにつれてしょっぱいものを好むようになるのが一般的だ。でもここの人間はそうではないらしい。そういえば、トーリスもカフェで嬉しそうにケーキを頬張っていた。
あっといまにぺろりとたいらげてしまった彼は、当然のようにおかわりを要求してくる。彼は朝をあたたかい紅茶だけですませてしまうので、その分昼に食べる量が多い。一方、夜は夜でウォトカがあるので食事量はさらに増える。
そのため葛葉は週になんども料理の献立で頭を抱える破目になるのだった。一見穏やかでなんにでも目をつむってくれるようにみえて彼はかなりの辛口で、おいしいときにはおいしいと言ってくれるのだが、そうでもないときは食事中終始無言、万が一お気に召さないようなら一口で皿を押しのけ、「まさか、これだけじゃないよねぇ」とにっこり笑う。彼のきたんのない意見は葛葉にとってちょっとした恐怖となっていた。
でも、自分から何かを食べたいと言ったのはこれが初めてだ。ふいに葛葉はここ数時間感じていた違和感の正体に気づいて、
「好物なんですか?」
目の前に皿を置きながら思わず訊ねると、うん、と薄い反応が返ってきた。それだけだった。
 
 
 
彼との食事はいつもとても穏やかだ。広い食堂にあふれる落ち着いた調度品は、いつの時代に作られたのか彼自身も知らないほど古く、自然と食事中にも背筋が伸びる。かといって居心地は決して悪くない。
食事が終わり、彼が自室に引き上げたあと、暖炉のはぜる音をBGMにテーブルの上を片付けながら、葛葉はぼんやりとこの屋敷のことを考えていた。雪で反射した光が窓から射し込み、長テーブルの余った部分をさみしく浮かび上がらせている。ぴしりとかけられたクロスの上は、皺ひとつなく秩序が保たれていた。このテーブルは二人で使うには広すぎる。
でも少し前まで、彼はこのテーブルをたったひとりで使っていたのだ。