モーツァルト・ブルーと終焉の色1

(死と絶望)
 
2000年の歴史を誇るオペラ座は話に聞いていた以上の荘厳さでテトラを迎えた。完璧な装飾と、創世神話を優美に描き出した天井。赤い絨毯。びっしりと細かく装飾の掘り込まれた扉とドアノブ。どこまでも続くかと思われる廊下には哀しみとも微笑ともつかない微細な表情を浮かべる神々の彫刻がずらりと並んでいる。宗教によって生まれ、そして宗教によって生かされているこの国は、いたるところに神々の存在を事欠かない。

天井から無言でこちらを見下ろす羽を生やした童子たちの目に光は宿っていないが、しかし今にも動き出しそうな生命感で溢れている。テトラはじっと彼らを見つめ返しながら、わたしがもし敬虔な信者であったなら、後ろめたさのひとつも感じるのかしら、と考えていた。彼女はこの国では紛れもなく異邦人であり、あまつさえひとつの信仰すらもっていなかった。ゆえにそれらはただの芸術品としてしか彼女の目には映らず、そのことが無性に悔やまれるのだった。ドレス、あるいはスーツ、そしてきらびやかな宝石で着飾った人々とテトラは、共に人間の一人として客席を埋める観客ではあっても、しかし同じ場所にいることにはならない。テトラは黙って扉をくぐり、暗い舞台の上に吊られている巨大なシャンデリアを眺めた。これが今日の仕事の代償だというのも、まあ悪くはない。

仕事はあっけなく終わった。依頼の内容は、オペラ鑑賞にやってきたリュリ男爵をオペラの最中に暗殺せよ、というものだった。しかも不可解なことに、あるアリアの最中に殺せという細かい命令までついていた。こんな細かく殺し方について指定を受けたのははじめてだったのでテトラは首を傾げたが、雇われ人に過ぎない彼女には理由を知る必要などなかった。聞き覚えのあるアリアが流れ出すと、彼女はボックス席へと音もなく身を滑らせた。
超絶技巧を要するコロラトゥーラ・ソプラノ。そのさなかに、彼女は背後から男爵の頚椎を折った。気配もなく流れるように行われた殺人の、それでも微かに起きた骨が軋む音は、オーケストラにかきけされてオペラに興じる人々は気づかない。隣の男爵夫人さえ、夫が絶命したことを知るのは幕が下りた後になるだろう。

テトラは、ふと、この殺人は芸術的と評されてもいいのではないのだろうか、と思った。それは奇妙な錯覚だった。彼女を取り巻く装飾に息づいた芸術家たちの気配が、彼女に乗り移ったのかもしれない。しかし現実的な彼女のこと、すぐにかぶりを振ってその考えを取り払った。

階下の舞台では、鬼気迫る表情の女性が、若い女性に詰め寄って声を張り上げている。舞台はまさに佳境だった。憎しみも露わに極限まで顔を歪めた女性には、なにも取り繕うものがない。魂そのものの姿だ。憎悪、絶望、嫉妬、殺意。そこには確かなものとして、ひとりの人間が形作られている。彼女はそれを美しいと思った。この国の人々が信仰を美しいと感じるのと、おそらくは同じ感情で。
「Tod und Verzweiflung」
歌うように呟き、テトラはボックス席を後にした。
 
 
 
 
今日の仕事にひとつだけ不満があるとすれば、それはオペラ鑑賞が最後まで許されなかった点だった。男爵の死が発見され、それに伴う騒動が起こっても、難なく切り抜けられる自信ならあったが、しかし国家の要人の集まるこのオペラ座では選り抜きの兵たちが警護にあたっている。ちょっとの面倒ごともごめんだったし、なによりも戦闘によってこの建物を損なうのはしのびなかった。テトラは赤い絨毯の敷かれた廊下を歩きながら、首元に手をやった。なれないタイが首を締め付けていて、それがたまらなく不快だった。

「子爵」

一段一段がばかみたいに広く、傾斜の緩やかな階段に一歩踏み出したところで、後ろから声が聞こえた。彼女は足を戻して振り返った。

「ヴォルフガング・ザイデルホーファー子爵」

それは今日彼女が扮していた貴族の名前だった。彼女の来た道にひとり、スーツ姿の男が立ってこちらを見ていて、それで彼女を呼んだのが彼であることが知れた。
そのオールバックの男はにっこりと明らかに胡散臭い笑いを浮かべると、一歩彼女のほうに近づいて静かに口を開いた。

「今日はお風邪を召されて、自宅で休養中のはずでは?」

男の声は穏やかだったが、テトラは背中にピリピリと電気が走るのを感じていた。そもそも、警護の厳重なこのオペラ座にいるという時点ですでに警戒に値する。答えずに鋭く睨みつけると、男は歩みを止めた。どこからともなく、す、と正装の男女がひとりずつ現れて、男の横を固める。

「そんなに警戒なさらなくても、命まで奪ったりはしません。少し、ほんの少しだけ、お尋ねしたいことがあるだけです」

ほんの少しがどれだけ危険なものか、闇の世界に身を置く彼女は十分承知していた。まず間違いなく、彼らも同族だろう。背後でまたふたつ気配が増えるのを感じて、彼女は内心毒づいた。
男の横に油断なく佇んでいた男が、無音で進み出てきていらいらと吐き捨てる。

「団長が出るまでもないね」

言い終わるや否や、鋭く地面を蹴る。

「殺すなよ、フェイタン」

いやにのんびりと男が言う。そのときにはすでに彼の手刀は文字通り彼女の腹を貫いている。上物のスーツの真ん中から突き出た自らの右腕をみとめると、彼はにぃ、と笑った。一拍遅れて、じわりとスーツの黒が濃くにじむ。

その途端、テトラの体は弾けた。弾ける直前、彼女の口元が笑みの形を作っていたことを、懐に飛び込んでいたフェイタンだけが見ただろう。

現状を把握する前に5人のならず者たちの目に映ったのは、無数のコウモリたちがアイデンティティを無視した飛行法で天井近くの開け放された窓へ向かって一直線に飛んでいる光景だった。不名誉なことだが、その場の誰もが目の前の予期せぬ光景についていけていなかった。
誰よりもはやく、といってもコンマ数秒の差だが、団長と呼ばれた男はいち早く我に帰ると、自らの能力で列の最後尾にいたコウモリをすばやく打ち落としたが、それは落ちた絨毯の上で少しだけもがくような素振りを見せた後、彼らを嘲るように一声ないたかと思うと、先ほどの彼女と同じように弾けて消えてしまった。