朝日に目眩

自宅からいくつもの角を曲がり、時間帯に関係なく常に薄暗い廊下へと続くドアをくぐった。そうして一番奥の、けっしてきれいとはいえないドアノブをひねって扉を開いた途端、彼はあからさまに眉をひそめた。
そう広くはない一室だった。半日分の時間をだらだらと潰すのに必要最低限は整えられているものの、訪れる者が男ばかりなので粗野な印象を受ける。部屋の大部分を占めるのは常に何かものが乱雑に置かれているテーブルといくつかの埃っぽいソファだ。全員が座るには足りないので、木製の椅子やらスチールの椅子も傍でぞんざいに散らばっている。
プロシュートは顔をしかめたまま後ろ手に扉を閉めると、いつも壮絶な争奪戦が繰り広げられる一際広いソファにつかつかと歩み寄る。アジトに一時間以上居座るどころか顔を出すことすら極端に少ない同僚の女がひとり、静かに横たわっていた。彼女はかなり深く眠っているらしく、プロシュートが枕元に来て苦々しい面で見下ろしてもいっこうに瞼を開く気配を見せない。窓から降り注ぐ朝日が青白い顔に長い睫毛の陰影を落としている。彼はしばらくの間、その稀有な光景をじっと眺めていた。そういえば、この女の顔をここまでじっくりと観察したのはこれがはじめてかもしれない。よく見れば髪の生え際が汗でうっすらと湿っている。
扉の開く音がきこえて、彼は首だけをめぐらせた。奥にある、仕事部屋へと続いている扉が開いており、いつのまにやらリゾットが立っていた。いたのかよ、という驚きをこめて視線を送れば、「はやいな」と内容のわりには驚いた色を全く見せない淡々とした声色で言った。いつも事実だけを述べる、彼らしい平生どおりの口調だった。それには答えず、プロシュートは小さく寝息を立てている女を指差し、なんだこれは、と吐き捨てる。疲労の色濃く残る彼女の顔色をちらと見、まさかとは思いつつも、「やったのか」と問う。プロシュートの口元に浮かんだ歪んだ笑みを、ドアにもたれかかって話を聞いているリゾットは全く気にとめなかったようだ。
「いや、やられた」
流れる水のように清涼な返事がこともなげに返ってくる。
「スタンド使いではなかった。近距離から短銃で撃たれた。」
「…短銃ね」
言外の意味を全く考慮されなかったことに興ざめしつつ、彼らふたりが昨晩仕事でいなかったことをプロシュートは思い出していた。なるほど、そうして話は昨日と今日できれいに繋がるわけだ。
「狙撃銃ならまだしも短銃か。接近戦で負けるなんざ、こいつもたいしたことねぇな」
「こいつは俺を庇った」
「庇った?」
「ああ。弾道の延長線上に俺がいた。撃たれたのは脇腹だ。臓器は無傷だったが、残っていた弾を摘出するのにてこずってな。銃創よりもそちらの傷の方が重傷だ。メタリカで縫合したから問題はないと思うが」
今日はどうも平坦な言葉に予期せぬ単語がよく混じる。プロシュートは怪訝な顔を作ったが、リゾットの方は全く気にならないようで、彼はあっさりと奥の部屋へと戻っていってしまった。彼を追いかけるようにソファをすり抜け、仕事部屋をのぞくと、リゾットは定位置となっているデスクについて何事もなかったかのようにキーボードを叩いている。会社の事務にでも並んでいそうなその作業用デスクは、ここがギャングのアジトであるというアイデンティティをかろうじて保つ形で部屋の中心に鎮座していた。仕事部屋はほぼリゾットの私室となっており、他のメンバーは命令を受け取るか報告書を提出するときくらいにしか足を踏み入れない。彼の性格を反映して常に整理整頓されているせいか、この空間は社会不適合者たちの溜まり場には似つかわしくなかった。そこでリゾットは一晩中、負傷した彼女のために控えていたということだろうか。仮眠をとることもなく、かといって彼女を置いて自宅へ帰ることもなく。
何かあったのだろうか。まさかほだされたんじゃないだろうな、と疑心をこめて思わずきつく睨みつけたが、リゾットは一向にこちらを気にする様子がない。徹夜(おそらく)の疲れなどいっぺんも窺わせない顔で書類を片手にディスプレイと向き合っている。よっぽど声に出して問いただそうかと意気ごんだものの、プロシュートはすんでのところで踏みとどまった。そもそもこの女を決して信用してはならないと最初に告げたのは他ならぬ彼であった。タイミングのよすぎるチーム配属と洗い出せなかった過去とを、ボスからのさらなる警告であると受け取るべきであると。プロシュートは女が横たわるものとは別のソファに視線を移し、すぐにそれが無意識の行動であったことに気づいて肩をすくめた。思えばそこは二人の定位置であった。アジトに来たときにそのソファが埋まっていると決まって彼らは怒鳴り散らしたものだった。二人がけのソファがそれしかなかったからだ。まったくもって気色悪い光景だと、全員揃って二人の見ていないところで舌を突き出したものだが、その侮蔑すらひっくるめてもはや習慣と成り下がっていたのだ。不本意なことに。

――殺そう。
真っ先に提案したのはギアッチョだった。しかしおそらく全員に一致した見解だった。
――殺してどうする。また別の番犬がやってくるだけだ。
苦渋に満ちた表情に反してリゾットの思考はひどく冷静だった。
――じゃあどうするんだ。この屈辱を受けるのか。爆弾を抱えるのか。犬歯に頚動脈を差し出すのか。リゾット。俺たちはそんなのは耐えられない。
――ボスの牙なんぞに、なにも頚動脈を差し出す必要もないだろう。指一本だ。爆弾を抱えるなら導火線を切ればいい。
彼が柔な心の持ち主でないことは、メンバーの中で最もつき合いの長いプロシュートが一番よく知っていた。類稀なる冷静さと分別、行動力を兼ね備えた人物であるからこそ、揃いも揃って不穏因子ばかりのこのチームの上に立つのを許されているのだ。間違っても人の中の低俗な部分にとらわれるほど愚かではない。むしろその対極にいるといっていい。
――受け入れるんだ。使い道によってはスペードのエースにもなる。ただし、あの女を決して信用してはならない。

プロシュートは仕事部屋の扉から身体を離すと、渦中にいる女の隣に音を立てて腰を下ろした。彼女は今、青白いがしかし穏やかな顔をして眠っている。何の遠慮もためらいもなく、プロシュートは彼女のシャツを捲った。リゾットの言ったとおり、腹部には包帯がかたく巻きつけられている。この下には彼が処置を施した銃創があるのだろう。彼はどのような思いで自らを庇った敵の手当てをしたのだろうか。そしてテトラの行動は、一体どこまでが彼女の本心なのだろうか。認めざるをえないが、今回の彼女の行動は彼にとって理解不能だった。最近の傾向としても、彼女は彼らに憎悪の念を引き起こすというよりはむしろ、混乱を巻き起こす存在になりつつある。
テトラはやはり目を覚まさない。緊張の糸が切れたように、体中を弛緩させて眠っているのだ。それは奇妙な思いつきだった。ふいに彼はひとつの可能性を見出してしまった気がして思わず眉をしかめたが、すぐさままずありえないだろうと声に出さずに片頬だけで笑った。それこそ幻想に過ぎない。彼らはとりわけ厳しい現実に生きている。
ふたたび扉の開く音がして、視界の隅にリゾットの立っているのが映り、プロシュートは彼女のシャツを元に戻した。すると彼がこちらに向かって歩み寄ってくるので、まさか叱責するために来るのではないだろうが、と彼の方をみると、手には錠剤のシートが握られていた。
「なんだそれは」
「抗生物質だ」
「なんだって?そんなもんここにあったのか。初耳だぜ」
「飲ませるのを忘れていた。ここは雑菌だらけだからな」
プロシュートは肩をすくめ、パキ、と音を立てて錠剤を取り出すリゾットを尻目に立ち上がり、さっさと部屋を後にした。途中ですれ違ったメローネには、今日は帰った方がいいぜ、とだけ忠告しておいた。意識のない人間にどうやって薬を飲ませるつもりなんだ、あいつは。