路傍の花

目があった瞬間、彼が小さく微笑んだり、あるいは確固たる瞳で頷いたりすると、それだけでなにも怖いものはなかった。肺に吸い込む空気はいつだって汚れていて、みえる太陽はいつだって凍っていたけれど、彼が傍にいさえすれば鼻先をかすめて横切っていく強い闇にはのみ込まれなかった。そこに救いを見出した馬鹿は大勢いて、ふん、烏合の衆め。アイデンティティはどうした。そう内心毒づくことも決して少なくなかったが、間違いなく自分もぞろぞろと彼に付き従う馬鹿のひとりに過ぎなかったので、めぐりめぐって自嘲ということになるのに相違なかった。自覚している。曖昧な記憶の中で、人間というものは近縁のものこそを憎み畏れる動物だと聞いたことがある。だからこそネアンデルタール人は人間の祖先に殺されてしまった(らしい)し、隣国との争いは絶えない。だとしたらこんなちっぽけな人間の一人に過ぎない自分が必然の泥に足を取られることに、一体なんの罪があるだろう。

今、彼はカラスミのスパゲティをフォークでくるくるとまきとっている。それを口元まで運んだところでこちらの皿が手付かずであることに気づいて、食べないのか、とひどく当たり前の質問をかけてきたので、わたしは目の前のラザニアを押しやった。このところ真っ当な食欲とは無縁だった。
「気にすることないですよ」横からフーゴが割り込んでくる。「テトラはアバッキオに手柄を持っていかれて拗ねているだけですから」
わたしが目をぐるりと目を回してみせると、「お前ほんとガキだな!」と隣に座っていたナランチャが軽々しく肩を叩いてきた。表情も声も、うれしくてたまらないというのが明らかだった。図体170センチのガキが。思いっきり睨めつけると、さらに愉快そうな顔をする。
一方で彼はというと、終始一貫して同じ表情をしていた。なんだそんなことか。そんな毒にも薬にもならないコメントを添えただけで、あえて触れてこようとはしなかった。あっさりと好物の夕食を再開する。
眉間に皺が寄るのがわかった。そうするとますますナランチャがここぞとばかりに絡んでくるので、皺は深みを増していくばかりだ。悪循環にはまっている。「いらいらしてんなぁ」ミスタが100%の呆れでもって吐き出す。「もしかしてセーリか?」
迂闊な言葉を吐いたミスタの眉間を狙って一直線に飛んできたフォークを彼は間一髪のところで弾き返し、手の甲によって軌道をかえられたその凶器は次に我関せずといった風情でピザをかじっていたアバッキオのこめかみへと向かったが、彼が(一瞥もせずに)上体をわずかに折りまげると、彼の後ろ頭すれすれを飛んだフォークは壁に突き刺さり、その半分以上を石材の中にめり込ませることになった。「てめぇ…」ことの顛末を目で追っていたミスタは、悪びれないがしかしさっきよりも明らかに冷えきった目で自分を見ている女を睨んだ。つまりわたし。「図星か?」
「ミスタ。あなたの品位のなさには心から同情するわ」
「…なんだと?」
「やるっていうなら、望むところよ」
「女だからって容赦しねぇぞ」
「『女だから手加減してやったせいで負けた』なんて台詞も、そろそろうんざりなんだけど」
ドドドドド、という地響きのような音をバックに椅子を引いて立ち上がったわたしたちに、「あとにしてくださいよ」フーゴが声をかける。「料理に埃が入るでしょう」もちろんわたしもミスタもきいてはいない。そもそもフーゴの方も無駄だとわかっているので、その声音はぼやくようにしか響かなかったのだが。ナランチャの方はというとすでに興味を失っていて、とっくに自分のスパゲティにとりかかっていた。
 
 
 
 
「馴染まないな」
食事を終えてフォークをテーブルに置くなり、ブチャラティは淡々と言った。ミスタとテトラの喧嘩は、四人が食事を終えてしまってもなお続いている。彼らは誰からともなく、とめるでもなく、ふたりの争いを見物していた。
無言でじっと見つめてくる気配を感じて、ブチャラティは右隣に座る男に視線を移した。アバッキオが腕を組んだ姿勢で、ブチャラティの方を見ていた。
テトラはおまえしか見ていないからな」
それはどういうことなのか、たずねようとしたところで、どこが、と呆れたような声が聞こえてきたのでブチャラティは視線を元に戻した。
「すっげー馴染んでるじゃん」
ナランチャがぼやく。ちょうどテトラがとても女とは思えない力でミスタの顔面に正拳突きをくらわし、その衝撃でミスタが窓ガラスを巻き込みながら店の外へと吹っ飛んでいくところだった。