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殺してやる、と、何度憎々しげにうめいたか知らない。青痣や切り傷が増えるたびに、俺は決まってそう怒鳴ったものだった。あいつはいつも、ふふふ、とくちびるのはしに微笑を浮かべてそんな俺を見ていた。郷里の母親みたいな表情をするものだからたまったもんじゃなかったが、いやだと思ったことはなかった。
そんなだったから、いつだったか、ふいに真剣なまなざしをして、留三郎は文次郎を殺すの、と訊いてきた時には驚いた。
「文次郎をいつか殺すの?」
なにをばかなことを。そう思ったが、彼女の真剣さに負けた俺ははじめて奴を殺す可能性について真剣に考えたのだった。
でも答えは決まっていたようなものだった。俺は何も言わなかったが、彼女はすぐに理解したようだった。
手を差し伸べると、彼女の左手は俺のてのひらを優しく包み込んだ。俺は先の文次郎との奮闘で突き指をこしらえており、彼女の方もまた、昨日の実習で右肩を脱臼していた。
「殺さないわね。世界がそうさせてくれないってだけ」
微笑みは穏やかだったが、彼女の答えはこの時すでに決まっていたのだと思う。
もしかしたら俺と文次郎が合戦場で相討ちになるという末路すら、彼女には見えていたのかもしれない。
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その日俺が昼食を食べ損ねたのはまったくの不注意だった。
学食へ行くという友人たちと別れ、俺は学生課へと向かった。奨学金の手続きをしたかったのだ。みたところ列に並んでいる人数はそう多くなく、むしろふだんより少ない方で、幸運だとすら思ったのだが、しかし並んでみると列は一向に減らない。最初のひとりの手続きになにやらひどく手間取っているらしいのだ。それに気づいたときにはすでに昼休みは終わりかけており、移動しなければ次の授業に間に合わない、という絶妙な時間帯だった。結局俺は目的すら果たせぬまま、空腹を抱えて教室へと向かうはめになった。
ぼんやりと考え事をしていたのがいけなかった。もっと注意深くしていれば、こんな事態は(少なくとも昼飯抜きなんていう失態は)起こらなかったはずだった。だからこれは俺の不注意で、不運なんかではない。断じて。
拷問のような時間が過ぎた。脱出するように教室を飛び出したときには俺の胃袋はすでに空腹を通り越してなんだかよくわからない状態になっていたが、それでも固形物を取り込むために学食へと向かった。この時間、すでに学食にいる人間は駄弁っているか自販機のコーヒーを飲んでいるかのどちらかだ。別に気にしないが、食券を買っている俺の姿はかなり場所にそぐわない。
鮮やかなグリーンのトレイをテーブルの上に置いたのと、奥のテーブルに座っていた花村と目があったのは同時だった。花村の目の前には紙コップが置かれており、湯気がたっているのが見えた。ここからでは中身の色は見えないが、中身はカフェインの入ったものであろうと知れた。全体的にぐったりとしていたからだ。
花村は俺の顔とトレイの上にのってる定食を交互にみると、少し思案顔を作ってから紙コップを手に席を立った。まっすぐやってきて、俺のはす向かいに座る。恐怖と期待とが交じり合った気持ちで多少なりとも覚悟していたのだが、予想に反してなにも衝撃は起こらなかった。安心し、それから安心している自分に愕然とした。全部内面での出来事なので、花村はもちろん気づかなかったろうが。
「きみは、食満くんの方だよね」
間近で合った目は、明らかに前よりも赤かった。俺は紙コップの中身を覗き込み、おや、と思う。
「ブラックで飲むのか」
「…飲むよ。なんで?」
「そういうタイプに見えなかった」
「なにそれ」
ふふふ、と笑う。そういえば、笑っているのを見たのははじめてだ。
「寝てないのか」
割り箸を割りながら、つとめて平静を装って聞いた。彼女は無言で頷いた。それから味噌汁をすすり、煮魚をほぐし、白米を半分口に運ぶだけの時間が流れたが、やはり何も言わなかった。無言で手に取った紙コップをぐるぐるまわし、液体のうねるのをじっとみている。
「昼ごはん、食べ損ねたの?」
花村が口を開いたのは、皿が全て空になってからだった。
「ああ、ちょっとな。ていうか、散々沈黙しといて第一声がそれかよ」
「今急に気づいたの」
「そうかい」
彼女の飲み物はすっかり冷めてしまっているようだ。
「どうせまた、喧嘩でもしてたんでしょう」
「…喧嘩?」
違う、と言いかけて、俺は急になぜ否定するのかわからなくなった。彼女はやはりふふふと笑っている。
「とぼけなくても、見てたのよ。いい加減にしないと伊作が怒るのも時間の問題よ」
「伊作が?」
「予算は有限だって、つい昨日嘆いてたばかりなのに」
「予算?」
「昨日も夜遅くまで会議していたんでしょう」
彼女は机の上で指を動かす。そろばんのつもりなのだろう。その拍子に手首が机の角にふれ、こつ、と硬質な音がした。棒手裏剣と木のぶつかる音だ。
そろばん?
棒手裏剣?
「文次郎よ」
「文次郎?」
「誰、それ」
何度か瞬きをする。夢から覚めた心地がした。動悸はひどい。こんなことははじめてだった。目の前の花村は紙コップを持ったのと反対の手の上にあごを乗せ、訝しそうに俺の顔を見ていた。
「今なんて言ったの」
力なく額に手を当てると、じんわりと汗をかいていた。
「寝ぼけてる?食満くんも寝てないの」
「…かもな」
ふうん、と頷いたのち花村はふたたび黙りこむ。なんなんだ、と思いながらも席を立てずにいるのは、彼女がいつか口を開くと知っているからだろう。そして、その口から語られる何かを待っている。
「最近変な夢ばかりみるの」
やがて花村は沈んだ口調で話し始めた。
「なんだかすごくリアルなの。なんだか暗闇の中を動き回ってることが多いんだけど、わたしはたくさん人を殺してるの。前話した殺される夢も、もう何回見たかわからない。これって深層心理?だとしたらわたしってヤバくない?予知夢?精神科に行ったほうがいいと思う?それともこれって神社?」
そこまで一気に話してしまうと、彼女は息をついた。そしてまた、視線は机の上に縫いとめたまま口を閉ざす。
「いつからなんだ?」
「大学に入ってからずっと」
正確に言えば、俺たちに会ってからなのだろうが、別に訂正する必要性は感じなかった。
「本当にリアルなのよ」
両手に頭をうずめ、一句一句を言いもらすまいと、ことさら力を込めて言葉をしぼり出す。限界という言葉が、麻痺した脳をかすかによぎっていった。
「飲み込まれてしまいそうになる。どっちが現実なのか、夢なのか、わからなくなる。境界線が曖昧なの」
俺はどちらが現実であることを望んでいるのか。
「…大丈夫だ。ただの夢だ。気にしなくていい」
顔を上げた花村は、少しの間無表情で俺の顔を眺めていた。瞬きを忘れてしまったかのようだった。やがて顔に安堵の色が広がるのを見て、俺は胸が詰まるのを感じていた。たぶん冷たい何か、研ぎ澄まされたなにかが胸をさいたのだ。でも、それでいい、と思った。わからなくていい、と。
もしかしたらこの現実もまた、夢になる日が来るのかもしれない。
なのに気づけば言葉がとっさに口をついて出ていた。
「その夢に、俺は出てくるか?」
花村は不思議そうに首を傾げたが、それでも少しだけ考えるような素ぶりを見せた後、すぐにあっさりと首を振った。
「出てこないよ」
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彼女は嬉しそうに自分の姿を見下ろしている。こんな上等な着物を着たのは生まれてはじめてだろう。貧しい村で生まれ、なかば口減らしの形でこの学園に追い払われたと、そういえばいつだったか言っていた。
彼女は俺の前でくるりと一度まわってみせた。俺が絶望的な表情をしていたからだ。そもそもここ数週間、この学園で笑っている奴なんてひとりもいない。ただし、彼女一人をのぞいて。
彼女は不思議そうに俺を見上げていた。その少し向こうに、強面の男たちが数人並んでいるのが見えた。
なあ、なんでそんな顔ができるんだよ。
やがて、彼女は俺の手をとって、言った。
「わたしたちはこの世界では幸せにはなれない」
くだらない世界。いつもどこかで誰かが殺しあわなきゃいけない世界。
「だから、このくだらない世界が終わって、誰も殺しあわない世界になったら。そうしたら、会いに来るから」
俺はもう、唖然とするしかなかった。そんな絵空事。なのに彼女の顔は確信に満ちていた。
「大丈夫」
自信たっぷりに笑って、そして繰り返す。大丈夫。まるで自分にも言い聞かせるみたいに。
「時がいくら廻っても、わたしは必ずあなたを見つけ出す」
「そしてまた、あなたを好きになる」
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俺はゆっくりと目を開いた。テレビを見ながらぼんやりとしていたらそのまま眠ってしまっていたらしい。変な体勢だったせいか、ひどく体がだるかった。まるで500年くらい眠っていたようだ。なんだか目と頬がひんやりとしていた。目をぬぐうと手の甲が濡れた。
視線をさまよわせると、めぐるましく画面を変えるテレビにぶつかった。深夜だからか、バラエティ番組しかやっていない。鮮やかな色彩を見つめていると、飲み込まれそうになった。ニュースが見たいなと、珍しく思った。でも、どうせ悲惨なことしか流さない。俺はテレビのスイッチを切った。
そして代わりに携帯電話を手に取る。選んだのは伊作の番号だった。こんな深夜だというのに、奴が寝ているかもなんて考えもしなかった。確信という枠におさまらない。それは信頼だった。風がちょっと吹けばすぐにでも撒き散らされてしまうあやうさ。なのにどんなに時が廻っても変わらずそこにある。
しばらくして、どうしたの、と伊作の声がした。
「俺は、くだらない世界でも、よかったんだ」
なに、と、受話器の向こうで伊作の不安そうな声がする。
「くだらない世界でも、同じ空気を吸えることが、嬉しかったんだ」
どんな世界だってよかった。
「ただそれだけで」
仙蔵はどこだろう。小平太は。長次は。そしてあの救いようのないばかは。
必ずどこかにいるはずなのだ。
四人に会いたい。どうしようもなく。あいつらに会っていろんな話がしたい。
心から思った。全身全霊を込めた、俺の最大の願いだった。これが叶えば、あとの願いは聞き届けられなくてもいいとすら思う。
だけど、こんなのはあんまりだ。どこかで終わりにしなければならない。
「伊作」
うん、と優しい声が耳朶をぬらす。こいつの声はよく耳に馴染む。それだけでもう、奴も同じ思いなのだということがわかった。
「もう、やめにしよう」