「アディダスってなんの略か知ってるか?」
鉢屋が突然話題を変えるのは、えてしてよからぬことを考えているときだ。しかもにやにや笑いまでついているのだから、これはもう間違いがなかった。俺はこれからおこりうるあらゆる可能性に身構える。不破はきょとんとした顔をしている。真面目にうけこたえようとしているのだ。嫌な兆候だ。
「古い!」
遮るように、花村の声がずばりと入った。
「あ、知ってた?」
「知ってるけど。古いよ。ネタが。てゆうかしもい」
「だって俺昨日借りたんだもん。あれ熱いよな。まじで」
今朝電車の中でずっと聴いてたんだ。そう言って鉢屋が机の上に音を立てて置いたのはアディダスの鞄、などと都合のいいことは特になく、いたってありきたりな藍色の学生鞄だった。二年と半分ほどの年月分擦り切れてはいるが、不潔じゃないのが鉢屋らしい。その中から鉢屋はコンビニの袋に入った月曜日のお約束ジャンプとやきそばパンを取り出した。高校生の定番ですね。
「テスト前日にCD借りて、テスト一日目にはジャンプですか!いいご身分ですな!」
花村の声はさも憤懣やるかたないと、いった様子だ。日本全国テストに悩める学生を代表しているつもりなのか、どこか義憤めいたものを感じる。
だが鉢屋はあっさりと、「テスト直前になって勉強するのは愚の骨頂」と切り捨てた。それはもうずばりと。彼が入学してからこれまで貫いてきた、かつ卒業まで貫き通すであろう持論だった。誰しもが正しいと認めつつも実行できずにいる究極のアンチテーゼ。涼しい顔をして表紙を捲る鉢屋に、花村はぐうの音も出ない。
しかし俺も不破も、そして当の花村も、勉強スタイルはどちらかといえば鉢屋に近い。
タイミングよく、うーん、と唸る声が聞こえ、全員の視線が机の上にのびている竹谷のぼさぼさ頭に集まった。
「『一夜漬けさせられた…』って、潮江先輩級のくまつくってテスト受けてたよ」
「…かわいそうに」
「自業自得。竹谷は危機感が足りなすぎるの」
竹谷のつっぷしている机の上に頬杖をついて、ふん、と鼻をならす。花村は竹谷の幼馴染だ。親同士の仲がよく、家族ぐるみの付き合いであるらしい。そのせいか花村は竹谷に遠慮がなかった。その逆もまたしかり、なのだが、勉学に関して竹谷は幼馴染に頭が上がらなかった。つまり、花村の天才的なヤマあて能力とオリンピック選手並みの集中スパルタトレーニングによって竹谷はなんとか中くらいの順位をキープしている。
「毎回毎回、竹谷もこりないなぁ」
「センターの前日にこれやったら二人とも共倒れだぞ」
三年に上がって以来、俺たちがひそかに危惧している事態である。
「そう思うならみんなも協力してよ。特に学年一位の鉢屋くん!」
「そんな暇があったらCD一枚聴いてメンタルコントロールにつとめるね、俺は。バイト代出るんならともかく」
「ただで教えてあげようか?友達を見捨てるとどうなるか」
「まあまあ」
鉢屋はやきそばパンをかじりつつ、視線をジャンプから上げようともしない。花村はじとっとした目で紙パックの牛乳を吸っている。交互にそいつらをみながら、俺は心の中で苦笑していた。教室の中には俺たち5人の他は誰も残っていない。本当に関係がないと思っているなら、さっさと帰ってしまえばいいのだ。
手持ち無沙汰になったからなのか、それとも不貞腐れているのを表現しているつもりなのか、花村は竹谷のあちこちはねた髪を指先でくるくるといじくりだした。竹谷の髪で遊ぶのは花村の趣味だ。頭のてっぺんをゴムで結ばれた竹谷の姿なんかもう、珍しくもなんともなかった。長ければ間違いなくみつあみにしただろう。頭おかしいんじゃないのか、と時々、というかわりと頻繁に思う。高校生にもなって。18歳だぞ。
突然、あ、と声を出して花村が鞄に手をつっこんだので何事かと思ったら、中から色鮮やかなハリボの袋が出てきた。
「あ、ハリボだ」
「また太るぞ」
「鉢屋はうるさい!」
「どうしたの、それ」
「さっき綾部くんにもらったの」
「綾部?綾部って、二年A組の綾部?」
「綾部くんていったらその綾部くんしかいないでしょ。なんかね、さっき廊下でばったり会って、そしたら『バレンタインです』ってくれたの」
鉢屋はおもむろに黒板の横にかけられたカレンダーに頭を向ける。
「…バレンタインって、まだ先だよな」
ただでさえ一学年下には濃い生徒が多いのだが、その中でも綾部喜八郎は一際目立っていた。無口無表情、上の空、いつもぽやっと半開きの口に、突飛な行動。なによりもそれらを補って余りある少女じみた美貌というのはちょっとない。クラスの女子に囲まれて、セーラー服を着せられるのなんてしょっちゅうだ。本人は嫌がるかと思えば、わりと満更でもないらしく、相変わらずの無表情ではあるものの、自前のふわふわカールを揺らしながら、てくてくと校舎を歩き回るのだった。彼の行動は生徒の間ではある種のネタと化している。
俺たちの学年はなんと穏やかなことだろう。そういえば、一学年上の先輩たちもなんだかすごい人、といよりも、変な人が多かった。先生方が集まって、「今年の受験生はなんというか、覇気がないですなぁ!」なんて言いながら談笑。そんな光景を容易に思い描けるあたり、なんだか悲しい。
俺たちの学年は平和だ。とにかく平和だ。しみじみと紙パックにつきささったストローをかみしめると、花村がずいと顔を近づけてきた。なんだよ、と若干たじろぐと、「いつも思ってたけど。なんか、兵助くんてダイエット中の女の子みたいね」とパッケージを指差して笑う。余計なお世話だ。
花村がハリボの袋を空けたとたん、甘いににおいにつられたのか、ふいに黒いかたまりがもぞもぞと動き出して、竹谷がむっくりと身体を起こした。
「…ねむい」
顔がしょぼしょぼとしている。学ランはよれよれだ。寝ぼけ眼をこすりながらも、「あっハリボ!」目ざとく糖分を見つけて目を光らせる。さっきまでの眠気はどこへやら、ニカッと笑って「ひとつくれ!」なんて言ってる竹谷をみながら、俺は地球が氷河期になってもこいつだけはくいっぱぐれないだろうとばかみたいに確信していた。横には、妙なところでたくましい幼馴染も、いるのだろうし。
「だめ」「えーなんでだよ。葛葉ちゃんのケチ!」「明日のテスト勉強が先。英単語二十個覚えたら一個あげるよ」「鬼…!」竹谷の顔はすっかり血の気が失せている。
花村は空になった牛乳パックとハリボをてきぱきとまとめたかと思うと(「あ、ぼくたちにくれるわけじゃないんだ」という不破の言葉はごく自然にスルーされた)、竹谷の手を掴んでいきおいよく立ち上がった。「昼飯は?!」「英文暗記してからね。とりあえず図書室へゴー!」
しぬー!とわめきつつ引き摺られていく竹谷を目で追いながら、戦地に赴く兵隊を見送る母親はこんな気持ちか、と妙に冷静な気持ちで考えていた。まあいつものことなのだけれど。
悲鳴はあっという間にフェードアウトの途につく。気味悪いくらい静まり返った教室で、前途多難だね、と不破がふいにぽつりと言ったので、俺も、まったくだ、と返した。すると、不破の顔が伺うようにこちらを向いたので、とたんに居心地の悪さを覚えた。何を言いたいのか。なんとなく彷徨わせた視線は自然と残りの一人、鉢屋のところへたどり着いたが、鉢屋はいつのまにやらヘッドフォンを耳に当てていて、こっちのことなんかおかまいなしで音楽にあわせて頭を揺らしていた。ハローハロー、ハウ、ロウ、なんて、口ずさんでいる。音は俺(と不破)には聞こえない。時折ジャンプを捲る音がするだけだ。
とっさに口をつけたストローからは、素っ気ないプラスチックの味がした。
企画「They Modern」さまへ提出させて頂いた作品です。
佐久間さん、素敵な企画に参加させていただきありがとうございました!