帰宅して真っ先に確認するのは玄関の靴で、けれど確認するしない以前に扉を開ければすぐに目に入るのでこれは矛盾のある言い方なのかもしれない。日々のただいまのあいさつの代わりの抗議を母親へ向ければ、今日の夕飯は豚肉の生姜焼きよ、というまるで脈絡を無視した返事が返ってくる。だんだんだんと大きな音をたてて階段をのぼりわざと大きな音をたてて部屋へ乗りこんだところで異邦者は振り向きもしない。それどころかほとんど動きすらしない。ベッドの上にうつぶせになって、わたしが来る少し前から続けていたに違いない漫画を読む行為に没頭している。
「真太郎!」
「遅いのだよ」
「ゆゆしき事態よ、これは。ずっと前から言っているけど、そこがどこかおわかり?」
「ベッドだ。スプリングがやわらかすぎるのだよ」
「花も恥じらう女子中学生の寝台よ!そんなサンクチュアリを部活帰りの汗臭いガキが我が物顔で占領していいわけないでしょ」
「小学校高学年までおねしょしてたガキの台詞ではないのだよ」
「うるさい!もう治ったもん!」
腹だたしいことに真太郎の目は少しもこちらを向かない。ベッドの脇には最近買ったばかりのお気に入りの少女漫画が積み上げられている。ちゃっかりしている、ほんとに。
わたしはいらいらしながら目当てのものを探した。いつも通り、彼のかばんは椅子の上にきっちり置かれている。中にはコンビニのビニール袋に包まれたジャンプが鎮座していることをわたしは知っている。
「ちょっとずれてよ」
「いやなのだよ」
「足の上に座るよ」
「赤司に殺されてもいいならご勝手に」
「くそっ、なんで部屋主のわたしの方が立場が弱いのよ」
わたしはしぶしぶ座椅子を引き寄せて腰を下ろす。
「ジャンプ、おっぱい枠増えたね」
「少し静かにしろ。今いいところなのだよ」
「あれ、意外に喜んでたりして・・・」
「これ次の巻はないのか?」
「無視?!でもさ、あれだよね、真太郎身長高いし細マッチョだけど男性ホルモン少なそうだよね。ひげとかちゃんと生えてる?」
ベッドがきしんで、振り向くと本棚を物色する真太郎の広い背中が目に映る。別に返事が返ってこないのは慣れっこだ。
「ねえ、真太郎、わたし今日告白されちゃった」
真太郎の動きが少し止まった、ように見えたのはもちろん浅はかな考えで、先月読んだ漫画を読みなおすことに決めたらしい彼は新たな漫画の山を抱えてもといた位置へ戻った。ぱらぱらとページを捲る音だけが空気を揺らす。
ベッドに肘をついて頭を乗せる。ちょっと物憂げに物思いにふける乙女みたいに見えるよね、なんて、馬鹿にされるから絶対に言わない。漫画本の隙間のメガネの向こう、長いまつ毛に縁取られたきれいな目が不機嫌そうにこっちを見た。
「3クラの化学部の子だよ。なんて答えたか知りたい?」
「別に。おまえの色恋沙汰などどうでもいいのだよ」
「そうだよね。真太郎、わたしのこと興味ないもんね」
笑顔は自然にこぼれた。本当のことを言ったからだ。真太郎は少しの間わたしの方をみていた。その表情は到底一言では言い表せないもので、笑っているようにも怒っているようにも見える。悲しげに見えるかといえばそういうこともない。真太郎がわたしに解るような表情を浮かべることは最近少しずつ減ってきていた。ちょっと前までは手に取るようにわかったんだけどね。真太郎はふいとまた漫画に視線を戻した。
「せいぜいこっぴどい振られ方をすればいいのだよ」
「え、ひどい!」
「泣きついてきても慰めてやらないからな」
「もう、振られる前提で話しないでよ!っていうか付き合ってないし!」
「なんだ。断ったのか。もったいない。もうこんなチャンス二度とないぞ。おまえの恋愛運は一生涯最下位だ」
「あっ、くそっ!もっとためてから言うつもりだったのに!はめたね?」
「おまえが自分でぼろを出しただけだろう」
ぐぬぬ、と唸っていると、ごはんよー、という間の抜けたお母さんの声がして、真太郎はすっくと立ち上がる。わたしはのろのろと立ち上がる。医者である真太郎の両親は共働きで、帰りの遅い日が週に何回もあるのだ。
「お詫びに豚肉一枚献上しなさい」
「豚になるぞ」
「バスケ選手に豚肉の生姜焼きはよくないってこの前テレビでゆってた」
「バスケに興味のないやつの言うことは信用しないのだよ」
先に階段を下りていく真太郎の背中。すっかり広くなっちゃったなぁ。
はいはいをする前からずっと一緒で、いつしか隣にいるのが当然のことのようになっていた。兄妹のようだと形容する人ならごまんといる。でもこの関係は恋人や兄妹よりずっと不完全だ。まるでお湯の中に浮かんでいるような心地よさと怠惰さ。どこかいびつで危なっかしくて、ちょっとつついたら一気にはじけ飛んでしまいそうなこのごっこ遊びの代償はどこかで払わなくちゃいけない。わたしはずっと覚悟してるんだよ、真太郎。
でも今はまだ、その時じゃないよね?