彼女は目をきらきらと輝かせて、その装置を見つめていた。このガラスびんの部分に水を入れて、ホースはこっち。炭の粉が喉に入ると興ざめだから、ここはうまくアルミホイルで工夫して…。もったいぶった動作でそれを組み立てていく佐々山の講釈すら、彼女にはとても興味深く、聞くに値するもののように思えるらしかった。立場の逆転に、佐々山はまんざらでもない。
「まさか博士がこんな前時代の遺物を持っていたなんてねぇ」
「父の倉庫を暇つぶしに漁ったらでてきたんだよ。佐々山くんはやったことがあるの?」
「ガキの頃に近所の不良グループがやってるのをみてたからな」
「どうせ混じったんでしょう」
「悪いか?でもそいつらがしょっぴかれた時、俺の色相はまだクリアだったぜ。それって喫煙と色相に相関関係はないってことだろ?」
「まだ、ね。でも結局は濁った」
「ほら、できたぜ」
吸引器を手渡すと、彼女はなんのためらいもなくそれを口に咥えた。ごぽごぽとあぶくの弾ける音がし、彼女はふうっ、と煙を吐いた。
「…想像したより甘いんだな」思案顔ののち、再び口をつける。
天才科学者の娘として生まれ、象牙の塔で育った彼女はしかし、まったく違和感のない煙草のくゆらせ方をした。いっそ惚れ惚れとしてしまうほどだった。カウチにうつぶせになった背中はゆるく曲線を描き、腰のあたりで白衣に皺を刻んでいる。彼女の体格は貧相で、その上にあぶなっかしく乗っかっている頭さえも小さい。この中にシビュラ公認科学者の頭脳が詰まっているとは、とてもじゃないけれど思えなかった。
とはいえ彼が他に思いつく科学者の例はひとつしかなく、彼女も彼女で一般に想像される科学者像からはかけ離れていたから、何をもって“らしい”とするかは彼にもよくわからなくなっている。
ぼんやりそんなことを考えていると、はい、と、だらけた声とともに吸引器が目の前に差し出された。寝返りをうって仰向けになった彼女が吐き出す細く長い紫煙を眺めながら、彼もまた煙を吸い込む。
「お気に召しましたかい、博士」
「うん、悪くないよ。少なくとも、サンプルをだめにされた憂さ晴らしにはもってこいだ」
「サンプル?」
佐々山はうろんげに煙を吐き出す。
「ああ、言葉を間違えたね。患者だよ、患者。どっかの執行官たちが片っ端からわたしの大事な患者を肉塊に変えてしまうから、いつまでたっても色相セラピーの研究が進みやしない」
「そうは言ったってね、博士、お嬢さん。犯罪係数が300を超えたら、ドミネーターは自動的にリーサルモードに切り替わっちまうの。重度の潜在犯なんざ、生きたまんま連れて来れるもんじゃねえのよ?」
「自分の能なしっぷりをシビュラシステムのせいにしないでくれるかなぁ。あれは父さんが魂を削って作り上げた結晶だよ。実際、実の娘のわたしよりも天塩にかけていた」
佐々山はとっさに彼女の言葉や表情の中に普段と違う色を探していた。しかし彼女は至って平生通りで、理論的な瞳を彼の方に向けている。父への愛情よりも、同じ科学者としての畏敬の念の方が優っているのだった。狂ってやがんなぁ。彼はやれやれと肩をすくめた。
「悪いがお前の親父さんの擁護はしたかないぜ。その結晶とやらに俺は社会不適合認定されちまったわけだからな。ま、お前のシビュラのご加護からこぼれた奴らを救いたいって心構えの方は理解できるがね。とにかく、人間できることとできないことがあるんだよ、お嬢さん」
「紫苑と同じようなこといわないでよ。気持ち悪い」
「おいおい、あんたらダチじゃないのか?」
「紫苑は血と姦詐に興奮するタイプ。わたしは発見と貢献に身を捧げるタイプだよ。友情なんて芽生えるはずもないね」
「…同意しかねるね」
ひとしきり肺を煙で満たした後、佐々山は吸引器をふたたび彼女に手渡した。代わりに机の上に置かれた、彼女特製だというやけに甘い紅茶に手をのばす。シーシャと言ったらミントティーだよ、とこれまた倉庫の奥からひっぱりだしてきたものなのか、埃っぽい写真集を見せびらかしながら彼女は言ったのだった。確かに、ガラスコップの底の方にはなにやら緑色の葉っぱが沈んでいる。元来喫煙者である佐々山は、煙草の供にはもちろん、いついかなるときもコーヒーはブラックで飲むのが信条だったので、これのどこが水タバコと合うのか全くもって理解不能であった。プログラムに淹れさせたものであったら、まず間違いなく手など付けなかっただろう。吐き気のごとく襲いかかる甘味に、彼は舌を巻いた。慣用句ではなく、文字通り、舌を巻いた。
「そもそも、300オーバーのやつなんてどうせ矯正施設にぶちこまれて動物だか植物だかわかんない一生を送るだけだろ。いつ完成するともわからないあんたの研究のためにそいつらの苦痛を長引かせんのは、はっきりいって賛成しかねるね」
「驚いたなぁ。今きみは自分の幼稚さと無知と矯正施設責任者のわたしへの侮蔑を両方同時に示したよ。そんな器用なことができる脳を持っていたなんてね。感嘆に値するよ」
「…あん?」
まわりくどいんだよ、おまえ。そう吠えようとしたところで、彼は言葉を飲み込んだ。大きな音を立てて診察室の扉が開いたからである。
はたして向こうに立ちはだかっていたのは彼の監視官であった。両手でまがまがしい形の銃を構えつつ(ということは、彼は神聖な診察室の扉を蹴飛ばして開いたということになる)、彼自身もまたまがまがしいオーラをたたえてカウチの上にだらしなく寝そべる二人を睨みつけていた。正確に言えば、佐々山はカウチに深く腰掛け、花村はその膝を枕にしてごろんと横になっていたのだが、狡噛にとってはそんなことどうでもよかった。
「佐々山ァ…」
銃の照準はまっすぐに男の方を向いていた。
「え、俺?」
この場に似合わない素っ頓狂な声を上げる男を、ふふんと勝ちほこった顔で見上げるのは女の方である。
「当然だ」
「おまえも同罪だ!」
炎でも出そうな眼光に射抜かれて、彼女は不思議そうに首を傾げた。「同罪?」
「なぜだ」
「なぜもなにも常識の問題だ!これのどこが執行官の色相セラピーなんだ!」
「あれ?知らない?これシーシャっていうんだよ。合法だよ」
「そんなこと聞いてんじゃねえ!」
「狡噛くんは相変わらず頭が固いんだな」
「そうだぞ、狡噛。これは立派なセラピーだぞ」
鼻で笑うと、佐々山は手を滑らせて白衣を着た花村の胸から腹を撫でる。花村は興味なさそうにその動きを目で追った。
「なんたって俺は女好きが高じて潜在犯落ちした男だからな。女に煙草。酒がありゃ完璧だが、これ以上のセラピーはねえだろ?」
「悪化させてんじゃねえか!」
狡噛は土足で室内へ踏み入れると、ドミネーターを佐々山の眉間に押し付けた。彼の表情はもはや怒りというよりも心底あきれ返った様子で、憐れみすらにじみ出ている。
「パラライザーモードでも、この至近距離でぶち込めばそのめでたい脳みそも無事じゃすまないだろうな」
「えっ、まじ?いつになく目が本気だぞ狡噛。まじで俺ここで殺されるの?こんなことで??」
「おまえいつだったか女の腹の上で死にたいと言っていたよな。よかったな、願いが叶うぞ」
「いや、これどうみても腹上死じゃなくね?っていうかやってねーし。やるにしたってどうせ最後にやるなら紫苑みたいなグラマー美女がいいっていうか…」
「なんだ、佐々山くん、紫苑みたいな脂肪のかたまりが好みだったの」
先ほどまでの飄々とした態度はどこへやら。一転、額に冷や汗をだらだら流し始めた佐々山は、視線で目下の女に助けを求めた。哀れな佐々山と修羅の形相の狡噛をだらしなく寝そべったまま見比べていた花村は、緩慢な動作で佐々山の方に身を乗り出した。何をするのかと思えば、佐々山の口に吸引器をさし込み、
「スプラッタはよそでやってくれない?明日の朝、家政婦さんが目を回しちゃうよ」
くるりと体の向きを入れ替え、男二人に足を向けてしまった。佐々山と反対側のカウチの隅には、彼女お気に入りのビーズクッションがある。呆気にとられて顔を見合わせる大の男二人の存在などないかのようにクッションを抱えると、彼女はひとつ大きなあくびをした。
「花村博士。わかっていると思うが、これは始末書ものだぞ」
「しーらない」
「狡噛、そろそろこいつにもドミネーター効くんじゃねえの」
一片の迷いもなく銃口を女の背中に向けた狡噛はしかし、いかにも悔しそうに舌打ちをした。
「…どうしてこんな非常識かつ無責任な女がシビュラ公認医師なんだ」
嘆く狡噛の声をきき、彼女は少し思案顔をした。寝返りをうち、相も変わらず他人を見下したうすっぺらな慈愛の微笑みを二人の男に向けると、
「シビュラにきいてね」
にっこりと言い放った。