一切の希望を捨てよ

 
 

悪魔のような顔をした女が目の前にいる。
と思ったら本当に悪魔で、しかも今この瞬間、絶対に会いたくない人物の筆頭に挙げられる女だった。

「・・・葛葉

女は口の両端をひきあげ、あきらかに蔑み笑いの形をとってみせた。

「いつからいたんです」
「なぁに、食後の茶で和んでいたらいつの間にか眠っていたその女にのしかかられ、枕にされ、もがいて抜けだそうとしたができず、さんざ悪態を吐いたわりにはまんざらでもない表情を浮かべたところなど見ていないから安心していいぞ」
「・・・相変わらず性根の腐りきった女だなぁてめぇはよぉ…何しにきやがった」
「まったく、心から同情するよ!契約さえしていなければ、今頃その女はどうなっていたことか!」

こちらの質問など気にする素振りも見せず、芝居がかった仕草で身をくねらせる。なおも意味のない感嘆の台詞を読み上げながら、女は背中に生やした翼でソファの上空を目ざわりにとびまわるのだが、室内には風を切る音ひとつしなかった。羽ばたきとともに舞い落ちる黒羽も地面に落ちるやいなや跡形もなく姿を消す。ベルゼブブはいらいらと舌打ちをした。

「私が動けないことを幸運に思いなさい」
「悪魔は術者に害の及ぶことはできないものなぁ」

けけけ、とおよそ外見に似つかわしくない癇に障る声で女は笑う。そこでベルゼブブはふいに違和感を覚えた。芥辺の張った結界内にいるにもかかわらず、彼女にはソロモンリングの力が及んでいない。ベルゼブブの不審な眼差しに気づいたのか、彼女は愉快そうに宙返りをしてみせる。

「師匠が弟子に負けるはずがあるまい」

彼女の言動はすべてが演技がかっていて真実味がない。表面をなぞっていくようだ。過去何十万年と続く一族同士の因縁など無関係にベルゼブブは彼女のことが大嫌いだった。一方の彼女も彼女で敵味方関係なく周囲の悪魔の神経を逆なですることに全力を注ぐような女である。
しばしの思案ののち、さぞかしたいそうなことを思いついたらしい。腕を振り上げ、揚々と演説をはじめる。
その前に。
事務所の扉が盛大な音を立てて開くのをベルゼブブはきいた。首だけめぐらせてそちらの方を見やれば、入口に芥辺が立っていた。いつも通り暑苦しい黒スーツ姿に凶悪面。しかし通常でないことの証として、その肩は激しく上下している。この男が階段を駆け上がるところなど、ベルゼブブはついぞ見たことがない。
確かめるまでもない。頭上の不快な気配はすっかり消え失せている。

40の悪魔の軍団を率いる大公爵家の当主である彼女がなぜ芥辺氏に師事されるに至ったのか、ベルゼブブには想像もつかない。気まぐれな彼女のこと、すべては“暇つぶし”の一言で片付くのだろうか。

「あいつに悪魔使いのなんたるかをいちから教えてやったのは私だ」

魔界の社交界で顔をあわすたび、葛葉は自慢げにのたまったが、多くを語ろうとはしなかった。こちらが苛立ちをつのらせるのを愉しんでいたのかもしれないし、たんに語るべきことなどないだけなのかもしれない。確認する唯一の手段である芥辺の口はさらに重く、訊ねれば不機嫌そうに舌打ちをもらして終わった。
あそこまで露骨な執着を見せておきながら。
あきれるが、口にすれば間違いなく最期の言葉になるのはわかっている。
なんにせよ、すべては伝聞で語られたことにすぎない。ベルゼブブは彼らが共にいるところなど見たことがないのだから。

「ベルゼブブさーん!お茶、新しいのに淹れかえましょうか?」

キッチンから湯気とともに佐隈の声が届く。
芥辺の帰宅で目を覚ました佐隈は、跳び起きるなり大慌てで無礼を詫びた。
(魔界の貴族を枕にするなど、とんだ贅沢者ですよ、あなたは)
用意していた台詞は悲鳴となって宙に消えた。芥辺が腕を背後からねじり上げたからだった。

「なんであいつが来てんだよ!こっちが呼んでもまっっったく姿現さねえくせに!!」
「そんなの私が知るわけないでしょうが!!!痛いです!痛い!!!!羽!!羽がとれる!!!」

芥辺に有利な情報があるならば、喜び勇んで話すに決まっている。葛葉が芥辺にこき使われる姿はどんなにか愉快だろう。
しかし彼の思惑などもちろん理解してもらえるはずもなく(悪魔同士に連帯感があるとでも思っているのかもしれない)(鳥肌のたつことだ)、解放されたのはつい数分前のこと。いつも通り芥辺の悪魔虐待に関しては傍観を貫く佐隈は気づけば帰宅した彼のためにキッチンでやかんに火をつけていた。

「貧乏くさい茶などもう充分です。それよりもデザートを所望します」

彼女の右頬にはいまだにベルゼブブのボタンの痕が残っている。そのことに彼は奇妙な幸福感を覚えるのだった。