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何をやっているんだ、と入り口からかかった声に、彼女はゆっくりと頭を上げた。髪の房を伝って水滴がぱたぱたとこぼれ落ちる。
「何って、入浴中だよ。そんなこともわからないの、槙島くん。まさか浴室でサッカーでもしていると思った?」
「そんなことをきいているんじゃないよ」
彼は心底呆れたようにため息をついた。もうもうと立ち込める湯気の向こうに、腹の立つ顔をうっすらみとめたからかもしれない。
「どうしてわざわざ約束の時間に入浴などしているんだ、ときいているんだよ」
「それはね、槙島くん。君がわたしの入浴の時間を約束の時間に指定してきたからだよ」
「ちなみに約束の時間からはもう1時間経っているよ」
「あれ、そうだっけ。槙島くん、1時間も待っていたの?暇だねぇ」
「入浴中に閃きの走る性質なのかな?」
「当たらずとも遠からず、かな。アイディアはさっきからひっきりなしに浮かんでいるんだけど、服を着た時にはたいてい全部忘れているんだ」
手を上げて、ぱしゃぱしゃと湯の表面を叩く。子供じみた行動に彼の疲れは濃くなるばかりだ。彼はその場から1ミリたりとも動かずただ一言、いつあがるの、とため息とともにもらす。一方彼女は素知らぬ顔で、見当もつかないな、とさも大事のように呟く。
「どうかな、槙島くん。わたしがのぼせる可能性にかけるより、君も一緒に入らない?その方がよっぽど建設的だよ」
「お断りするよ」
「なら出直すんだね」
彼はそれまで腰に当てていた手を、ゆっくりとポケットの中へ忍び込ませた。その先には鋭く光る金属のきらめきがある。視線の先のなにも知らぬ女は間抜け面で伸びをしている。ややあって、彼はポケットから手を出した。残念なことに今はまだその時ではない。
槙島は羽織っていたカーディガンを床に落とし、靴下を脱ぐと、タイルをひとつひとつ踏みしめるようにバスタブへと向かった。湯気の中、よくよく目を凝らしてみれば、それは古めかしい猫足バスタブであるらしかった。彼はわずかに目を細めた。ホログラムの普及している今となっては珍しくもなんともない光景だったが、彼女はホログラムを心の底から嫌悪しているので、まちがいなく実物だろう。どこからか引っ張り出してきたのか、はたまた自分でこしらえたのか。最先端の技術を指先で操り、いくつものシビュラ公認施設の管理を任される彼女はしかし、妙なところで古いものを好んだ。
バスタブのへりに腰掛け、右の足先をそっと湯につける。なにか薬剤でも入っているのか白く濁ったその湯の温度は熱すぎもぬるすぎもせず、長湯するにはまさに理想の温度だった。これだけ長時間温度を保っているということはつまり、自動で湯温を調節する機能が備わっているということだ。由緒正しい骨董品も、彼女の手にかかればこんなものである。だからこの女の懐古主義は信用できないんだ、と体を一気に深く沈めると、ざあっ、と大量の湯があふれて滝を作った。予想通り、減りすぎた湯がどこからともなく補充される音がする。
「なんだ」
スラックス越しに足をさする感触があった。バスタブはそう大きくないので、いやでも彼女と文字通り膝を交えることになる。その膝を彼女が両の手でさすっている。動きに合わせて湯が揺れる。いかにも蔑んだように槙島は鼻で笑った。
「首から下に、興味はないんだろう」
いつだったか彼女が口にした言葉だ。
「うん。でも、槙島くんの行動には興味があったんだ」
顔の半分を湯につけたまま、恨めしそうにべたべたと足やら腹やら胸やらを触る。彼は拒むでもなく黙ってその様子を見下ろしていた。彼女の仕草の意図は多くの場合不明だ。まるっきり馬鹿げている。いつもの茶番。
 
 
 
 
はじめて会った時、彼女はきらきらと、新しいおもちゃを見つけた時の子供のように目を輝かせていた。周囲は暗闇に包まれていたので、彼女の両の瞳はまるで星のようだった。すごい、すごいよ、君!両手を頬にあて、恍惚の表情を浮かべる彼女の体はしかし、べったりと返り血で汚れていた。
「すごいよ、君!」
体全体で喜びを表現して、今にも踊りだしそうな勢いで手を絞る。
「こんなに残虐非道なことをしておいて、全然色相が濁っていない!すごいよ、君!」
いつのまに色相を測定していたのか、そんなことも気にならなくなる程、槙島聖護は呆気にとられていた。先ほどまで彼女と談笑していたであろう人物は頸動脈をナイフで一閃されて地に崩れ落ちている。飛び散り部屋中のあちこちを汚した血は彼の日常だ。一方久しぶりに遭遇する非日常が彼の目の前でぺらぺらとまくしたてている。
「この家の警備システムはね、一見完全無欠だけど、よく解析すると一点だけおかしなところがあるんだ。ありていにいってシステム上の不備だね。見つけたときは警備会社に訴訟しようかと考えたけど、やめたんだ。なぜだかわかる?だって、ふつうの泥棒だったらまず絶対に見つけられないような高度な不備だったからね。放っておいても問題ないだろうと思ったんだ。逆に言えば、この穴を見つけられるような奴は、よっぽど頭のいいやつだよ。しかも花村家に忍び込んでなにかやらかそうと思ってるやつだったら、そいつは間違いなく最高にひねくれ者のサイコな犯罪者だ。違うかい?だからわたしは、ここをこのままにしておくことに決めたんだ。いつか最高のサンプルが自分から舞い込んでくれるかもしれないって、望みをかけてね!」
最後は唄いあげるのに近かった。やにわに距離をつめると、まだ槙島がナイフを握っているのも構わず彼女は彼の手をとった。
「300オーバーの検体が手に入れば上等と思ってたけど、まさかこんな特異点が手に入るとは!」
「…僕は君の実験体になりにきたんじゃないよ」
脅しのつもりで返したつもりだったが、槙島が思っているようには彼女には届かなかったようだった。彼女は嬉しそうに頭を上下にぶんぶんとふった。
「ああ、知っているよ!わたしだってみんなが思ってるほどマッドサイエンティストってわけじゃないもの!何が望みだい?わたしの死?」
邪悪の混じらない純粋な瞳が彼を射抜いた。
 
 
 
 
あの時血で顔をまっかに染めていた彼女はいま、湯気に健やかな肌を晒している。しかし肩から見える骨格はひ弱で、扇情的というよりも子供を連想させる切なさを漂わせていた。焦点はぼんやりと定まらず、どこともつかない虚空を眺めている。
「もしかしてのぼせたかい?」
「まさか」
槙島にとって、人間の心の動きほど単純明快なものはなかった。古代の人間が星を読むように、目の前の人間がどうなるか予想することなど容易いことだった。しかし目の前の女はどうだろうか。彼女の行動は予測がつかない。つまり、論理性が見いだせない。
じろじろと舐め回すような槙島の視線にも、葛葉は無頓着だった。湯こそ白く濁り視界を妨げたが、本当は何色でもどうでもいいと思っているのだろう、と彼は思った。
槙島は目をつぶって深く湯船に浸かった。
葛葉。今は何をしているんだい」
「おいしいカレーの作り方について論文を書いているよ」
「ばかげているね」
「そう思うだろう。先週書いたレシピよりずっと独創性にかけるんで困ってるんだ。どんな食材を使ったか知りたい?」
「遠慮しておくよ」
「槙島くんは今何をしているのかな」
槙島は答えなかったが、彼女も特に答えを期待していたわけではなかったらしく、また無言で湯に体を沈めた。体全体を覆う温度がずるずると眠りを誘う。ゆるやかに染みる。そんな感覚だ。すべてが靄に包まれた世界で、ふいに彼は意識を引き上げた。
「君には倫理観はあるのかな」
「唐突だね。いったいなんでまた?」
本当に唐突だったので、彼は黙って口元だけで笑った。
「槙島くんのことだから、どうせまた昨日読んだ本の影響でしょう。あててみようか。たとえばニーチェ…」
「なんとなくさ」
「なんにしたって曖昧な質問すぎるよ」
「どう捉えてくれてもかまわないよ」
ううん、と彼女はいたってくそ真面目にうなった。
「それ、君が持ってるもの?」
「もちろん」
「ならわたしにはないんじゃないかな」
彼女はあっさりと言った。二酸化炭素も顔負けの当然さでそれは自然に彼女の口から滑り出た。
「倫理観という言葉は広義だけれども。正邪の境界や善悪の境界をつけるための判断基準のことをきいているのなら、わたしにはないよ。なんでも正になるし、邪にもなる。今まさにわたしはシビュラが邪と判断したものを正に変えようとしている。今のところどの試みも失敗しているけれど。人の価値の判断基準を人間が定めるのは、おこがましいよ」
「じゃあたとえば、人が善人を殺すことは悪ではないのかい」
「人は生きているだけで罪を負っていると主張する集団もいるよ」
「では君は何をもってこの世界を見る?」
「あえていうなら、好奇心かな。でも好奇心で善悪ははかれない」
そうだろう、そう言って葛葉はにっこりと笑った。
「槙島くんは?」
「僕かい」
彼もまた、にっこりと笑った。
「すぐにわかるよ」
 
 
 
 
しばらくの間、納得いかないと不定腐れた顔で槙島に湯を掛けたりシャツをひっぱたりと子供じみた行動をしていた葛葉だったが、やがて飽きたのかバスタブのへりに頭を預けて目を瞑った。ふいに槙島は、何かが欠け落ちていると感じた。何か、考える手間すら惜しいほどどうでもいい違和感だった。しかし唐突にすとんと理解したものがあった。しかしまだ言葉にするには不自由だった。彼には珍しいことだったので、彼は少し眉間に力をこめた。
「頼まれていたファイルは寝室の端末に入っているよ。データ名は槙島くんの名前。パスコードは前に話したとおり」
邪魔だ、という意思表示のつもりなのか、ご丁寧にこちらに蹴りを繰り出すモーションも加えてくる。白い脚がこれまた白い湯からぬるりと伸びている様はまるで何か得体のしれないいきもののようだ。槙島はすぐにバスタブから立ち上がった。途端にあたたかな水を吸ったシャツやスラックスが体にまとわりついた。脱ぐのも骨が折れそうだ。槙島は再びうんざりした気分を思い出していた。
「タオルはそこの籐の台。服は父のものがすこしクローゼットに残っているから使っていいよ。返却不要。もちろん、わたしの服の方ががよければ勝手に好きなものをとっていって構わないけど。濡れた服はその辺においておけば家政婦さんが洗ってくれるから、次来るときにでももっていけばいい」
「世話焼きなんだね」
「時々違う役割を演じてみたくなるんだよ。自分に与えられたのと違う役割を」
こんな世の中だからね。
扉をしめると彼女の声はいとも簡単に途切れた。