Nightmare 1

 
 
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人が恋に落ちる瞬間ほど愉快なものはない、と臨也は言う。
ふーん。彼女は答えた。ふーん。他になんと言えばいいのだ。ふーん。特に言うべきことなど見つからない。
葛葉は人が恋に落ちる瞬間を見たことがある?」
「ないよ。そもそもそれって傍から見てわかるもの?恋なんて気づいたら落ちてるものでしょう?落ちる前と後に明確な線引きなんてあると思う?」
「それは興味深い解釈だね。気づいたら落ちている。つまり当の本人はごく普通の平坦な道をずっと歩き続けているつもりで、でもある時ふいに気づくんだ、あれ、いつのまにか落ちている、ってね」
臨也はにっこりと笑う。それ以外の語彙を持たないからそう表現した。だが心は間違いなく苛立ちを感じている。
彼はなおも口上を続けんと手を振りかざす。葛葉は静かに目を伏せた。彼の意見はろくなものじゃない。もう二度と一緒に昼食はとるまい。牛乳パックのストローに口をつけた。
 
 
 
 
 
 
 
 
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随分ながいこと繰り返し確認しているのだが、どこにも目当てのものが見つからないので彼女は首をひねった。クラスメートと悪ふざけをしていて、気づいたらぽろりと落ちていた。あっ、と声をあげるよりも早く、ポケットにいれたシュシュが窓枠をこえて眼下の花壇の中に姿を消した。まっさかさまに落ちたのでなく、風にあおられて少し横にそれたかな、と念のために隣の花壇にも目を通す。桃色のシュシュは出てこなかった。高校進学を機に上京した自分、地元に残った親友。思い出にと卒業式の日に買いそろえたものだった。ため息をついて立ち上がると、彼女はスカートのプリーツについた土を払い落した。夕焼けが足もとに影を落としている。
荷物をとりに教室に戻る、その途中で、ひとりのクラスメートとすれ違った。素行が悪くほとんど授業に姿を現さない、わけではなく、放課後いつも繁華街の不良たちの腰巾着になっていて何度も補導されている、というわけでもないのだが、一度切れると手のつけられない暴徒と化すことから生徒からも教師からも敬遠されている平和島静雄だったので、彼女は心もち早足で彼とすれ違った。確認しなかったので彼の表情はわからない。
教室内には誰もいなかった。直に担任が教室の鍵を閉めにやってくるだろう。彼女はロッカーに向かい、ふと、自分の机の上になにかが置かれていることに気づいて行先を変えた。そこには彼女の探していたものがあった。手にとり、裏返したりゴムを伸ばしてみたりする。別にシュシュのどこかに答えが書かれているわけではないのだが、そうせざるを得なかった。確信はないが、可能性としてなら十分にあてはめてもよいはずだった。
彼女は教室を見渡した。もちろん、誰もいるはずもなかった。しかしなにか見はられているような奇妙な寒気がした。
 
 
 
 
 
 
 
 
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もう二度とするまい、と決意しながらも、彼女は今日も愚かなことを繰り返している。仲の良いクラスメートは病気がちで、まだ6月だというのに欠席はあまり珍しいことではなくなっていた。そういう時、当然の顔をしてとなりを陣取るのは臨也の役割だった。屋上の、いつものベンチで。
臨也はいつも彼女の弁当をとった。代わりにコンビニの袋を手に押し付ける。ビニール袋の中身を確認して、彼女は眉をひそめた。
「わたし、タラコ嫌いなんだけど」
「そう?もしかしたら今日は食べられるかもしれないよ?意外にもおいしいと感じてしまうかもしれない」
「そんな低い可能性にかけるより、中身を知ってる自分のお弁当が食べたいんだけど」
「でも俺は間違いなくコンビニおにぎりが嫌いなんだ。これは絶対に覆らない事実でさ」
「だったらあんたもお弁当を持ってくればいいじゃない」
「やだね。俺は人の作ったものが食べたいんだから」
むかむかとしながらおにぎりのビニールをばりばりと破る。なぜこんな奴に従わなければいけないのか。少し考えてから、彼女は黙っておにぎりのてっぺんに口をつけた。臨也は楽しそうに卵焼きを箸でつまんで宙にかざしている。昨日の夕飯の残りを混ぜて作った、ひじき入りの卵焼き。
「君のおかずはいつも小技がきいているよねえ。よく言えば家庭的、悪く言えば貧乏くさい。小さい時からお母さんの手伝いをしていたのかな?それとも、両親が共働きでいつも君が食事の支度をしていたとか?」
彼女は答えず、おにぎりを飲み下す。赤色のものが見えてきたところで、中身をティッシュの上にかき出した。
「約束は守ってよ」
「相変わらずせっかちだなぁ。そんなに焦らなくてもいいじゃん。昼食くらいゆっくり食べさせてよ。大丈夫、ちゃんと協力するって。俺が一度でも約束を破ったことがある?」
「約束を破らないって保証はない」
「ひどいなぁ。俺ほど信用のおける人間はいないよ?少なくとも、君の好きなあいつよりずっと頭もいいし約束の重大さは心得てる。ぷちっと切れて大事な信頼関係を一瞬でぶちこわしたりなんてこともしない」
ふいに思い当たることがあった。そういえばこいつはわたしがタラコを嫌いなことを知っている。
 
 
 
 
 
 
 
 
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勇気は出しつくした。最後にもう一回、あと一回しぼるだけだ。なのにいつもそれができない。
「また駄目だったのかい?」
いつのまにか隣を陣取っていた臨也が言う。葛葉は唇を噛んだ。
「甘いものが好きだから、この日はチャンスだよって去年も言ったよねぇ?今年も駄目だったんだ?」
葛葉の手の中にあるものをひょいと取ると、ゆっくりおもむろにリボンをほどいていく。もともとピンクだが、夕日がかぶさってしずんだ色に見える。ばかにされているようだ、と思うと、ばかだねえ、と本当に声がかかった。この日のために3回練習したトリュフ。ひとつ飲み下した後に言う。彼女には言い返すことができない。
「でもまあ、大丈夫だよ。ライバルはいないから。女子はみんなシズちゃんが怖いらしい。疑うなら新羅にもきいてごらんよ」
二つ目を口に放り込みながら言う。最低あと一年あるんだ。気長にやればいいさ。
 
 
 
 
 
 
 
 
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後ろ暗い契約が成立してから早三年目になろうとしている。どことなく只者ではない気配を感じさせていた臨也だったが、実際そうだったらしい。二年目はただの偶然だと思った。しかし三年目になると驚愕で言葉が出なかった。
「ほら、俺って信頼に足る同窓生だろ?」
どういう手管を使ったのか知らないが、葛葉は三年間、静雄と同じ教室で机を並べることになったのだった。一方で入学当初仲良かった友達の存在はすっかり周囲から忘れ去られていた。一年の途中で病をこじらせ学校に来なくなったらしい。以降、彼女の隣にはいつも臨也(と時々新羅)の姿があった。
「今年もやるのかい?」
答えを言う必要などない。
「わざわざバレンタインなんかにかこつけなきゃ告白できないなんて、君もたいがい腑抜けだよねぇ。三年越しの想いって、所詮その程度なの?」
受験前の大事な時期なので、臨也の言葉に心をかき乱される余裕などない。古風だとわかっていながら、放課後教室に残っていてほしい旨を書いた手紙を同封し、静雄の机に入れた。三年間でようやくここまでの進歩、上出来だ。
 
 
 
 
 
 
 
 
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けれど待てども待てども静雄は来なかった。来ないので文庫本を広げるが、視線は表面を撫でるだけだ。かたり、という足音をきいた気がして廊下の方をみれば担任で、なんだまだいたのか、鍵を閉めるから早く帰りなさい、非情に言い捨てる。不機嫌そうに見えたので、彼もまた付き合って2年目になる彼女とうまくいっていないのだろうか、と勘繰ってみたが驚くほど少しの後ろめたさも感じなかった。 重い足取りで学校から駅までの道のりを歩く。来週には第一志望の大学の受験を控えているというのに、自分はいったい何をやっているのだろうか。背後で笑い声すら聞いたような気がしていた。でもきっとそれはどうしようもない被害妄想で、ちゃんと前を向いて歩かないと、そう決意して頭をあげたところで静雄の姿を見つけた。
駅に続く階段の、ちょうど直前のところだった。携帯と周囲を交互に見て、まるで待ち合わせをしているようだ、と思った瞬間に女の子が階段を駆け上ってきていた。後ろから飛びついて、肩をこづく。静雄は焦った顔をしているが、どことなく笑顔に見えるのは、これもどうしようもない被害妄想だろうか。彼女は別の入り口を目指して駆け足でその場を去った。
その夜、葛葉は臨也に電話をした。数回のコールのあと速やかに留守番電話サービスにつながり、彼女は黙って電源を切った。
 
 
 
 
 
 
 
 
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雪になるという予想は見事に外れたらしい。目を覚ますよりも一足早く、まどろみの中のざあざあという雨の音で朝を迎えた。窓を開ければサッシに氷の粒がついていて、みぞれが混じっていることを知る。だからといって別にそれが予兆だったというわけではない。
大学合格の知らせをうけたのが二日前のことだ。電話で知らせると両親は手放しに喜んでくれた。郊外ではあるが、一応大学は都内なので今の住まいから通える。大学に行く前に一度帰省してはどうかという提案に葛葉は素直に従うことにした。午前中をだらだらと過ごしたあと、昼ごはんを食べ終わってから重い腰をあげ、ボストンバックに荷造りをする。新幹線の切符は駅で買うので時間だけネットでチェックして家を出る。夕方なのだが雨がふっているのであたりは薄暗かった。
ふいに葛葉は道の向こうを傘もささずに歩く人影を見つけた。あまりにひっそりと歩いていたので目にとまったことが不思議でならなかった。あまつさえそれが臨也だとわかってしまった。少し考え、腕時計に目をやって、さらにもう一度考え、彼女は陸橋を登った。
ああ、葛葉か。 どんないけすかない言葉を吐くかと思えば、そんなことをぽつりと呟くので非常に拍子抜けである。
「どうしたの、傘もささないで」
「傘?ああ、傘、忘れた」
「どこに?」
「家に」
「朝から降ってるのに?」
「そうだっけ?」
どうにもはっきりとしない会話なのだ。何が足りないかと思えば、それは間違いなく毒気だった。
「風邪ひくよ」
「ひいたっていい」
「なんかあった?」
「ないよ。別に何も」
そのまま放っておくのは簡単なことだった。これから実家に帰るから。そう言って手をふりさえすればいい。だが彼女はそれを選ばなかった。
部屋にあがった臨也は無言で手渡されたバスタオルで頭をふき、手渡されたジャージに着替えた。身長こそ高いが細身なのでレディースのシャツでもなんなく入ってしまう。足が出るのだけはどうしようもないので見かねて靴下も渡した。
父親に電話をいれ、帰省を一日遅らせるむねを伝えている間も、彼は終始無言だった。ぼうっとここではないどこかを見つめている。話しかけるのも躊躇われ、あたたかいお茶を入れ、斜め向かいに居心地悪く座っていると、
「ここ、寒いんだけど」
一言とともに袖をつかまれる。