遠くの方で鳥が鳴いたかと思えば、次の瞬間にはすぐそばで甲高い声をきいている。ツツツ、と澄んだ声で空気を震わすこの鳥は、おそらくコガラだろう。昨日より今日、今日より明日と次第にあたたかみを増していく陽だまりの中で、目を閉じてじっと横たわっていた。
忍術学園の校庭のすみの、少しひらけた野原だった。すぐそばには打ち捨てられたような面持ちで一本の木が佇んでいて、涼しげな影を草の上に落としている。もう少しして、日差しがじりじりと髪を焼くようになれば、その下で涼をとることになるだろう。そんな自分の姿は容易に思い描けた。でもまだ空はそんなにくっきりとは青くないので、穏やかな太陽の真下で午睡に耽るでもなく、かといって考え事をするでもなく、ぼんやりと呼吸を繰り返していた。瞼の裏は橙色に染まっていて、すぐそばでは土と草のにおいがしている。平穏という言葉に色やにおいがあるならば、今味わっているこれらであってほしいと思う。
ツツ、という高い声を間近で聞いたような気がした。目を開ければ白と黒の愛らしい鳥を見つけられたのかもしれない。同級生の孫兵なら真っ先に飛び起きたのかもしれないが、彼と違ってわたしは別段鳥に興味はなかった。
だから、重い瞼を持ち上げたのは鳥の鳴き声が原因ではなかった。ふいに瞼を通る陽光が翳ったからだった。
「おやまあ」
悲鳴ともつかない空気の塊を呑み込んだ。すぐ目の前に人の顔があり、遠慮のない瞳でじっとこちらをのぞきこんでいた。
勢いよく上体を起こし、驚きもあらわにその無遠慮な人物の方へと向き直る。お世辞にも感情豊かとはいえない彼の視線は、それでも淡々とこちらの動きを追って持ち上げられた。拍子に彼の眼下に垂れていた細い糸束のような髪が背中へふわりと落ちる。先ほど飛び上がった際、はずみでわたしの頬に触れたものである。思わずぞわりと鳥肌のたった頬を手でおさえた。ばくばくと高鳴る鼓動が胸を押し上げていて、声を上げることもできずに目の前の少年を見上げた。目を逸らすことができない要因として、彼もまた無表情にこちらをじっと見下ろしている。
無言でみつめあうふたりのうしろでツツ、とコガラが鳴いていたが、まるで現実感がなかった。やがて、何が合図だったのか、
「なんだ」
と彼がつまらなそうに呟いたので、わたしは大きく瞬きをした。え、と聞き返すよりもはやく彼はくるりときびすを返して少し離れた大木の方へ歩いていく。そしてそのままこちらへは目もくれずに大木の下をぐるぐるとまわりはじめた。
わたしは呆気にとられ、彼の様子を眺める以外の選択肢を見つけ出せずにいた。
美しい顔立ちの彼は優美な紫の制服をまとっている。一級上の綾部喜八郎だった。色素の薄い髪の隙間から覗く肌は、陽光の下にあっても抜けるように白い。長いまつげに縁取られた感情の浮かばない瞳は、なにをしたいのか、大木の下の地面をためつすがめつしている。
呼吸を整えたわたしは、おそるおそる彼の方へ近づいていった。
「あの、」
大きな目が素直にこちらを向いたとき、少なからず驚いた。もちろん話しかけるために声をかけたのだが、本心ではあまり反応を期待していなかった。
「何をしているんですか」
「…落とし穴」
「え、落とし穴?」
「そう、落とし穴」
彼が学園随一のトラパーであり、多くの被害者を出していることはもはや常識だった。
「掘るんですか?」
「そう」
それ以上どう話を続ければいいのかわからず、彼の方もまた、返答がないとわかるやいなやさっさと大木の下を調べる作業に戻ってしまった。陽光は相変わらず燦々と降り注いでいる。もう少し横になっていたかったな、とぼんやり思ったけれど、隣に彼がいるのではどうにも居心地が悪い。仕方なく長屋に帰って書物でも開こうと考えた瞬間、
「帰るの」
ふいにおだやかな彼の声がかかった。頭の中を読まれたのかと思えるほどのタイミングである。
「あ、はい」
「そうなの。でも今、三年生は校外実習中ではないの」
「え」
「確かにあれは退屈極まりない実習だったけれども」
「あの」
なぜそれをと問うた声は、彼がクナイを地面に突き立てる音にかき消される。どうにもやりにくい。
「あの、先輩は、」
「喜八郎」
「え?」
大きな目が、じいとこちらを見上げる。
「喜八郎」
それは、そう呼べと言うことなのだろうか。少しの戸惑いのあと、
「綾部先輩は…」
反応をうかがうように尻すぼみに発した呼びかけを、彼は無反応でうけとめた。別段、不満もないが満足もしていないといった様子なのだが、なにせ会ってから全く表情の変化がないので、まったく感情の変化が読み取れない。それで問題ないとうけとめるより他にない。
「綾部先輩はなぜ…」
「…」
「綾部先輩?」
ざくざくと木の根元を掘っていた彼の手がぴたりととまり、視線が上を向いた。すけるように白い肌と形のよい唇が露になり、あまりにも美しいそれに思わず戸惑う。
「綾部先輩?」
まるで動きをとめてしまった彼におそるおそる手をのばすと、指先が触れるよりもはやく身を翻して立ち上がる。そして、あっさりと視界から消えてしまった。
一体なんだったのだろうと、彼が軽やかに駆けていった方向を唖然として眺めた。結局、何がおやまあだったのか、何がなんだったのかも、なにもわからないままである。
どうにも釈然としない。そう思いながらこちらもまた長屋へ戻ろうと踵を返したところで、ふたたび息をのんだ。すぐ後ろに、人が立っていたのである。
全く気配を感じなかったのもそのはず。顔を確認してわたしは納得した。彼は六年生の中でも一番の成績を誇る立花仙蔵だった。
腕を組み、涼やかな顔でこちらを見下ろしてくる彼は、どこか人を萎縮させる雰囲気をまとっている。
しばらく無言の対峙が続いたが、ふいに彼の口元がゆるんだ。
「なんだ、まるで妖しでもみたかのような顔をして」
もっとタチが悪いです。言葉はすんでのところで飲み込んだ。
「いえ、あまりに突然だったものですから」
「忍びのはしくれが何を言うか」
口元に手の甲をもっていき、くつくつと笑う様はまるで女のようだ。頭巾の間から零れた緑の黒髪はさらさらと風に揺れており、濡れてもいないのにつややかに光っている。
彼は先ほどの綾部先輩の所属する作法委員会の委員長をつとめている。だからなのか、彼と綾部先輩は同じ方向性の雰囲気を纏っている。二人とも肌はぬけるように白く、一般的な女性よりも女性的な美しさに恵まれている。誰もが彼らに羨望とも嫉妬ともつかない眼差しを向けることだろう。
ところで、と口元から含み笑いを消さないまま彼が口を開く。
「喜八郎をみなかったか」
「…綾部先輩を?」
予期せぬ言葉にわたしが思わず返すと、すかさず彼がそれをみとめて目元を動かした。あまりにわずかなそれらは、おそらく一般人であれば気にも留めないようなささいな感情の起伏だ。忍びたるもの、どんな表情の変化も見逃さないようにと常日頃から叩き込まれているのだが、こんなささいな瞬間でも自然に意識してしまう自分に嫌気がした。しかしそれは同時に、彼の方が何枚も上手であると言うことが証明されたということだった。無意識のうちに眉根に力が入ったが、どういう感情からそうしてしまったのかはわからない。
「綾部先輩がどうしたんですか」
「先ほどまでここにいただろう。どこへ逃げた」
こちらの問いには答えない。尊大な態度は、わたしが彼にとって不利益に働かないことを確信していることのあらわれだ。しかし全く嫌味には響かない。実力のあるものにだけ許された矜持。
わたしはほとんど反射的に口を動かしていた。
「みていません」
彼の目が、すっと細められた。たちまち頭にさっと血がのぼったが、すぐに振り払う。できるかぎりの毅然さでもって彼を見上げる。
「綾部先輩のことは、知りません」
「ほう」
じ、と見下ろされる視線にたえられず、思わず視線を逸らした。その先に、先ほどまでクナイのつきたてられていた土の塊がある。おそらく彼の視線もそれを追っていたはずなので、わたしは自分がどうしようもなく愚かなことをしてしまったことにそこではじめて気がついた。
言わないで、と釘をさされたわけではなかった。立花先輩から逃げているとだって、一言も言わなかった。ただ風のようにふらりとやってきて、穴を掘って、また風のように去っていった。ただそれだけなのに。なぜわざわざ敵対する行動を取ってしまったのだろう。そもそもこれは、彼にとってためになることなのだろうか。
「わかった」
不意に上から降ってきた言葉に、視線を元に戻した。手は先ほどと変わらず組まれており、尊大な態度も相変わらずだが、目の奥にはじめて光が瞬いたのを見たような気がした。
「喜八郎は委員会中によくいなくなるのだ」
「え?」
「奴の悪い癖だ」
彼はくすくすと笑う。その目元に浮かんでいる表情はすみやかに判断を下せる類のものではなく、わたしは曖昧に笑ってこたえると、失礼しますとだけいって足早にその場を離れた。
分は自分の方にあると、そう暗にほのめかしていたのかもしれない。足を進めながらふと思ったが、後ろを振り返って確認するほどの勇気はもはやなかった。