梅雨が開けたので主が喜んでいる。
髪が整えやすくなるとか、好きな服が着れるとかいう、おなごらしい理由ではもちろんないが、洗濯物がよく乾く、カビが減るなど梅雨の間ぼやいていたそれらも主な理由ではないらしい。
ことの発端は本丸の敷地に生える大きな梅の木に僕が気づいた時に遡る。
それは僕らが本丸にやって来てから間もなくのことで、風流に通じる僕には花も実もつけぬそれが何かすぐに分かった。
主に伝えると、主もまた目を輝かせた。畑当番を離れてゆったりと散歩する僕をめざとく見つけて叱りに来たことなどは、都合よく忘れてくれたようだった。
剣を振るう以外、この手は筆を持ち、この指は管弦をつまびくもの。それを土で汚せと命じるなど、なんとまあ分別のない審神者のもとに顕現してしまったものだと嘆いていたのだが、梅の木に興じる心を持っていたとは。
「梅花の宴、とは恐れ多いけれど。春が楽しみだね」
僕を顕現した審神者である主とはあまり共通点がなかった。現世で歌を詠む風習は廃れて久しい。僕が唯一知る現代女性である彼女はその筆頭である。でもこれなら心を通わせられるかもしれないと、嬉しそうに頷く彼女を見ながら多少なりとも安心したのは僅かのこと。
彼女が楽しみにしていたのは花が散った後の方であった。
そうしてうきうきと瓶の前に立つ主を、僕は白けた気持ちで眺めている。
瓶の蓋が開かれるとたちまち酸っぱいにおいがたちこめ、僕は袖元で口元を覆った。そんな僕に主は気づかないようで、
「うん、梅酢もしっかり上がってるし、ちょうどいいわ」
頷いて蓋を閉める。そしてこちらを見上げた。
「…なんで僕がそんな重いものを運ばなきゃならないんだ」
「だって歌仙、力持ちそうなんだもの」
僕は料理は得意だが、これはどう考えても僕の仕事ではない。だがここで抗議しても無駄なことは半年の付き合いでよくわかっていた。何より現在近侍の自分以外ほとんどが内番や遠征、出陣で留守にしている。
主の指示のまま、黙々と本丸広間の縁側に瓶を運ぶ。なんでも一番日当たりが良い場所が必要らしい。
抗議の表情あらわに縁側から動かなくなった僕を意にも介さず、主は予め用意しておいた竹の笊に、菜箸でてきぱきと梅を並べていく。その様子を眺めていると、海藻のようなものがごそっと出てきたので僕は思わず目を瞠った。
「なんだい、それは」
「赤紫蘇」
「そんなもの前は入れていなかった」
「ああ、漬けて少ししてから入れるのよ。ほら、先月赤紫蘇を収穫したじゃない。その時に。わたし赤い梅干しが好きだから」
「…いつのまに」
審神者だって政府との戦略会議に顕現の儀式に刀剣たちの統率に、決して暇ではないのに。それほど食べ物への執着がすごいということだろう。とはいえ絶対に感心などはしてやらない。
主は赤紫蘇も一緒に竹笊に並べた。あとで叩いてゆかりにするのだという。
かくして、瓶の中の全ての梅が笊に並んだ。
こうしてすっかり座所が梅くさくなり果てたのだが、ばかな主はこの中で仕事をするつもりなのだろうか。そして僕にもそれを強いるつもりなのだろうか。
「今日も野菜が豊作ですよ、主君」
今日の畑当番、前田と五虎退が籠いっぱいの胡瓜や茄子、オクラを掲げる。
「昨日みたいにぬか漬けにしますか?」
「そうねえ、それもいいけど、今日はちょうどいいから梅酢をちょっと取りわけて酢漬けにしましょう。お願いできる?」
「いいですね」
「あ、そうだわ。梅シロップはそろそろ飲み頃だから、酢漬けが終わったら梅ジュースを拵えてあげるわ。休憩しましょう」
嬉しそうに台所へ向かう二振りを横目に、僕はため息をついた。
「梅シロップ…そんなものも作っていたのかい?」
「そうよ。実家では毎年作っていたの。今年から本丸暮らしでどうしようかと思っていたんだけど、まさか梅の木があるなんてねえ」
嬉しかったわぁ、そんなことをしみじみと言いながら台所に移動し、グラスに氷を敷き詰め、件の梅シロップを垂らし、サイダーを注ぐ。
梅干し用の梅は、3日間干すらしい。しかも日が陰ったらまた瓶に戻し、翌朝また笊にあげるのだそうだ。つまりこんな重労働を3回ずつ繰り返すということだ。
台所の片隅で酢漬けを作り終えた短刀たちは梅ジュースを受け取ると、庭の方へと向かった。
「…僕の分はないのか」
グラスが2つしか出されなかったことに嫌な予感はしていたのだが、机の上にはなにもなく、しかも主は梅シロップの入っていた容器をもとの戸棚に戻している。まさか、一番重労働をさせた自分になにもないのか。
すると、主はにやりと笑って、戸棚から別の小さな容器を取り出した。
「…なんだい、それは」
「梅酒よ」
そういって酒器も出してきたので、僕はぎょっとしてしまう。
「昼間から飲むつもりかい」
「いいじゃないちょっとくらい。今日はもう大した仕事残ってないんだし」
そうして酒器に梅酒を注ぐ。
「まだ漬けてから日が早いから、今日は味見程度ね」
「…はぁ」
「ごめんね、少なくて。本当は梅酒をもっと拵えたかったんだけど、シロップと梅干しで梅が足りなくなっちゃったのよね。ほら、うちは若い子の方が圧倒的に多いじゃない。そりゃ若いって言ったって神様なんだから気にしなくていいんだろうけど。でもそこはやっぱりね」
そんなことは聞いていないのだが、と言いたい僕をよそに、主はさっさと広間に移動してしまう。仕方なく僕もついていく形になった。梅のすっぱいにおいが立ち込めていて、とてもこの中で休憩する気にはなれない。しかし主はどっかと腰をおろして、満足そうに深呼吸をしている。あまつさえ、早く座れと手で隣を叩いている。
「ねえ、おいしい?」
「…まだ飲んでいないよ」
「はじめて作ったから、出来が不安なのよ」
「それなら、全部シロップにすればよかったのに」
「だって歌仙が飲みたいと言ったから」
「…え?」
胡乱げな僕に、主はきょとんとしている。
「だってあなた、前に梅花の宴って言ってたじゃない。梅酒で宴がしたかったんでしょう」
僕はもう、しっかり眉を顰めていた。俗に言う落胆の表情だった。この女、まさかここまでとは。
鈍感を体現したような主にもここまでするとさすがに伝わるようで、ふいに不安そうに瞳を曇らせた。
指摘は喉元まで出かかった。かの有名な歌人が開催したか宴について。何首もの名歌が生まれ、それがいかに後代に影響を与えたか。その名歌のいくつかを詠み上げ、滔々と語ってやろうかと。
しかし説教を説くよりも僕は黙って梅酒を口に含むことを選んだ。
彼女の言う通り、まだ梅の表面的な味しかしない酒だった。
「…来年は梅干しをもっと減らして、梅酒に回すんだ」
「え?」
「君ね、梅酒は何年も熟成させて楽しむものだよ。こんなちょっとしか拵えなかったら、あっという間になくなってしまうよ。まったく、次郎太刀に見つからないように戸棚の奥に隠して置くことだね」
たちまち、主は顔を輝かせて笑った。その顔を横目に、僕はぐいと杯を干した。
風流を解さない女が昔の会話を覚えていたからといって、それがなんだ?