Tourniquet

 
※孤/狼/の/血パロです。殺人の描写があります。苦手な方はブラウザバックをお願い致します。
 
 
 
宴会の終わった離れを片付け、レジ締めをして店内に戻ると、銃兎さんが来ていた。カウンター越しに女将さんと談笑しながら、日本酒のグラスを傾けている。わたしが現れたのをみとめた女将さんは、女のわたしですらどきりとしてしまうような美しい微笑みを浮かべ、戸締まりよろしくね、とだけ言って去っていった。野暮な真似はしないわよ、とでも言うかのように。けれども背を向ける間際に、悪戯っぽい色が目元に浮かんだのをわたしは見逃さなかった。
 
「何の話をしていたの?」
自分用にビールの小瓶を冷蔵庫から取り出し、銃兎さんの隣の椅子を引いた。いやにもったいぶった間のもたせ方から既に嫌な予感はしていた。なに、と銃兎さんは唇の端をあげた。
「プロポーズされたのに、断ったそうじゃないか」
「…やっぱり」
「あいつだろう、いつも閉店間際までここで粘っていた、不動産会社の男。まさかそこまで進んでいたとはな」
「女将さん、誰にも喋らないって言ったのに」
「前のSEと別れてからたいた間もあいてないのに、お前もよくやるな」
「驚いた。銃兎さんの情報網って、下らない恋愛沙汰にまでめぐってるのね」
「そんな暇ねぇよ。お前がフラフラしてるから、女将さんが心配して勝手に喋ってくるんだよ」
こっちはいい迷惑だ、と続きそうな物言いだった。わたしはビールの栓を抜くと、グラスに静かに注いだ。
「お前のこと、引き取ってやってくれとも言われたな」
しゅわしゅわと泡がひいていく様を眺める。
「…なんて答えたの?」
「『殉職警官の遺族になってもいいんですか?』」
「そんなことだと思った」
わたしたちは視線で笑い合い、グラスを鳴らした。
 
銃兎さんは基本的にはワインしか嗜まないそうだが、うちの店では日本酒を注文した。どれも女将さんの目利きで揃えられた一品だし、この店の料理とも合うのでその方がいいのだそうだ。女将さんも女将さんで銃兎さんのセンスを絶賛していた。わたしはといえば日本酒に関してはまだまだ修行中の身なので、ふーんと思っただけだ。こんなことを言うと破門されそうだが、わたしはビールがこの世で一番おいしいお酒だと思っている節があった。
日本酒とクリームチーズの味噌漬けのマリアージュを楽しんでいる銃兎さんを横目に、わたしは盗聴器を袂から取り出した。SDカードを引き抜き、テーブルの上に置く。
「警察の汚職って終わりがないね」
真っ赤な顔をして帰っていった警察官と、その向かい側に座ってへこへこと頭を下げていた面々を思い出し、溜息をついた。どういう人達かはもはや聞く気にもなれなかった。そして彼らの脇の甘さも、もはや呆れを通り越して称賛に値するとさえ思った。
そんな状況を作るのに裏で糸を引いた銃兎さんは、満足そうにSDカードをケースにいれて胸元にしまった。銃兎さんが自由に動き回る環境を作り出すためには、警察内外の恥部に精通する必要がある。内部のやつらは弱みを握って脅し、外部は摘発して自分の手柄に仕立てる。
私はその協力者のひとりだった。もちろん、女将さんもだ。今日みたいにこの店で証拠を抑えることもあるし、変装して別の店に赴くこともある。ヨコハマで女将さんの顔は広いので、口利きで近くの料亭やクラブに潜入させてもらうことはそう難しくない。会ったことはないが、銃兎さんにはそういう協力者が男女問わずたくさんいるそうだ。
「すぐに全員の弱みを握って、こんな阿漕な仕事なんてお役御免だと思ってたのに」
「嫌になったか?」
「まさか。楽しくて仕方ないよ」
「…そうこないとな」
銃兎さんは笑う。よく考えれば、銃兎さんは汚職を暴いて警察内部を浄化しようとしているわけではない。あくまで事実をちらつかせて相手を意のままに操るために使うだけだ。そして自分の仕事に最大限利用する。全ては水面下だから、悪人が減ることはない。
けれども、ここのところずっと気になっているのは、そんなことではなかった。
 
「そんなこと言って、ヤクザの接待は絶対にやらせてくれないくせに」
空気が凍りついたのがわかった。あくまで軽い調子で言ったつもりだったが、銃兎さんの反応は敏感だった。眉根はわずかに寄せられている。
「狂骨組の薬物のルートの情報、欲しいんじゃない?」
「…どう見てもタイプじゃない男と付き合ってると思ったら、やっぱりそういうことか」
「幹部の出入りする店、教えてもらったわ。探るなら、わたしが一番適任だと思うんだけど」
 
今度こそ、銃兎さんは思いっきりわたしを睨みつけた。噛み付いたつもりはないが、手駒にだって知恵も意思もある。そのつもりで放った言葉だった。
銃兎さんはしばらくわたしを睨んでいたが、しばらくして溜息をついた。そして頭を振る。
「寝言は寝て言え。俺には火貂組がついてるんだ。ヤクザの情報はそっちから入るって言っただろう」
「火貂組”しか”ついてない、の間違いでしょう」
 
基本的に裏社会の組織のシノギは薬物であるのが常だ。銃兎さんはそれを片っ端から潰してしまうので、火貂組以外とは手を組むことができない。この仕事を始めて、警察関係者に接触するようになってわかったことだが、腕の立つマル暴は複数の組に顔を作り、どこかひとつの組が大きな力を持ち過ぎ国にとって脅威とならないよう、均衡を保ちつつ抑制するのが定石なのだそうだ。明らかに、銃兎さんのやり方はお上の方針に反しているように見えた。
「俺の目的はヤクザを弱らせることじゃない。ドラッグをなくすことだ」
わたしの考えなどお見通した、というように銃兎さんはこちらを見た。
「最終的に火貂組がのさばっても関係ない」
「火貂組だってこのまま勢力拡大を続けたら、いつ銃兎さんを切り捨てるかわからないでしょう」
火貂組組長と若頭の義理堅さはその道では有名だったが、ヤクザの任侠というものは基本的には身内でのみ通用するものだ。状況が変われば何が起きてもおかしくはない。
 
「…その時はその時だ」
銃兎さんは酒を飲み干した。そしてわざと音を立てるようにテーブルの上に置く。乱暴な仕種ではなかったが、議論の終了を告げる強制力は十分に働いていた。
「二度とそんな危ない真似するんじゃねぇぞ」
「…ごめんなさい」
銃兎さんはやれやれといった様子でため息をついた。
わたしもまたビールをぐいと呷った。そして取り繕うように笑顔を顔に浮かべた。作り笑いはすっかり身についてしまっていた。
「もう一杯飲む?」
「貴女に選べるんですか?」
「これでも一応あの人の一番弟子よ?」
「お手並み拝見、といきたいところだが…やめておく。明日朝早いからな」
「じゃあ、お茶を煎れるね。余り物で悪いけど、梨も切ったら食べられる?」
「…ああ」
カウンターに入り、薬缶に水をいれて火をつける。冷蔵庫から半分になってラップを掛けられた梨を取り出し、包丁を握る。皮を剥きながら、ふと刃物の煌めきに見入った。
 
 
 
 
 
 
あの日から、一日足りとも自分が何者なのかを忘れたことはない。婚約者を殺された日のことだ。
彼はヤクザに殺されたが、彼自身も決して真っ当な人間ではなかった。惚れた男が極道だっただけ、とはどこの言葉だったか。とにかく彼はあの日、自分のシマで敵対する組の小売人が薬物取引をしているのをみつけ、小競り合いになった挙げ句に腹を刺され、翌朝山下埠頭の海に浮かんだ。
青いビニールシートを掛けられた婚約者の姿を見たわたしに浮かんだのは、涙ではなかった。彼が真っ当な人間ではなかったと言ったが、結果的にはわたしも大差なかったと言える。
わたしは犯人を殺した。自分が手を下した相手の女と知って調子に乗った犯人に、ホテルに連れ込まれたのだった。ほだされた体を装い、隠し持った果物ナイフで滅多刺しにした。相手が動かなくなったのを見届けると力が抜けて、血みどろのフロアにへたり込んだ。体が鉛のように重かった。
それからどれくらい経ったかわからない。はたして入り口から物音がして、頭を上げると警察が立っていた。このヤクザを張っていたのだろう。男は、室内の惨状を目の当たりにして言葉を失っていた。
「逮捕して下さい」
朦朧とする頭で、のろのろと両手を伸ばした。実際には手首を差し出したのだった。山下埠頭で彼の遺体を見た瞬間から決めていた覚悟だった。
彼はベッドの上に横たわる死体とわたしとを見比べると、悲痛な面持ちで唇を噛んだ。彼、銃兎さんは、手錠を出さなかった。代わりに側にしゃがみ込み、わたしを強い力で抱きしめた。視界が塞がった。逮捕して下さい、とわたしは繰り返す。銃兎さんはさらに腕の力を強くして、大丈夫だ、と唸った。胸元を両掌で押し返そうとしたが、力が入らない。そこで初めて、わたしは自分が小刻みに震えていることに気がついた。
「こんな外道のために、ブタ箱に入る必要なんてねぇよ」
 
 
 
 
 
 
「…葛葉
はっと我に返ると、眉を顰めた銃兎さんが視界に入った。薬缶がカチカチと音を立てて蒸気を出していた。慌ててガスを止め、力なく笑ったわたしが何を考えていたか、銃兎さんには気づかれただろうか。
梨を皿に盛り、ほうじ茶を煎れて席に戻る。
湯呑に口をつけた銃兎さんは一言、うまいな、と零す。
 
この仕事に就いた当初、情報を渡す度に銃兎さんはそれなりの厚みのある茶封筒をこちらに渡そうとした。でもわたしは断った。おそらく女将さんも含め、他の人達がしているのと同じように、受け取るべきなのだろう。わかっていても、なぜかその封筒を手に取る気にはなれなかった。
件の殺人は数日後にヤクザの抗争によるものとニュースで報じられた。本来であれば、もみ消した罪をちらつかせて恐喝、ないしは圧倒的に銃兎さんが有利な取引をすることだってできたはずだ。でも銃兎さんはしない。彼が手を汚すのは、彼の思う正義のためだけだ。
 
一方で、わたしは何なのだろう。
こんな共犯者めいた顔を作って見せるけど、結局わたしの負うリスクなんて高が知れている。そこに物足りなさを感じてしまうのは、一体何なのか。
彼の道に追随しているのだろうか。人を殺めた罪滅ぼしだろうか。恩返しのつもりなのだろうか。それとも、余生の退屈しのぎなのだろうか。
いまだに答えは出ていないが、わかっていることはひとつだけある。
 
血塗れのわたしを、スーツが汚れることも厭わず抱きしめた。
あの腕の力強さを思い出すだけで、この後どんな世界でも生きていけると思ったのだ。