※最終巻のネタバレを含むのでご注意下さい。愈史郎が鬼になった時期や設定、過去は創作です。
※ポ.ー.の.一.族パロです。
※ヒロインは幼女。
#1896年
その頃、俺はまだ鬼になったばかりで、体は細胞の変化にまったく追いついていなかった。
山道を歩きながら俺がその場にへたり込んだのは、まだ子四つ時という時分だった。予定していた行程の半分も進んでおらず、おろおろと肩を支える珠世様をぼんやりと眺めながら、自分の不甲斐なさに歯噛みをした。(青ざめた珠世様の横顔は儚げで、相も変わらず美しかったけれど、さすがに見惚れる余裕はなかった。)いくら見渡せど身を隠せそうな洞穴は見つからない。このまま二人して太陽に灼かれるくらいなら、あるいは鬼に見つかって屈辱を味わうくらいなら、せめて珠世様だけでも。そう言おうとしたところで、運良く家屋に行き当たった。
この際人に助けを借りるのもやむを得まい、と珠世様が門を叩いたが、いっかな人が出てくる様子はない。それどころか、人がいる気配も稀薄なのである。珠世様は勝手口を入って直ぐの、日の当たらなさそうな一角に俺を横たえると、自身はそっと室内に入って行った。
ぐったりと床の冷たさを感じながら中に呼ばれるのを待ったが、いくら待てども声がかからない。外観は小汚い民家といった体で、そこまで探索する余地があるとも思えなかった。さすがに不審に思い、壁を伝いながらよろよろと室内に入った俺を迎えたのは、一面の返り血だった。三、四体ほどの死体が、折り重なるようにして倒れている。
違和感に気づいて手を持ち上げると、俺の掌にも黒いものがついていた。壁に飛び散った血だった。擦るとすぐにはらはらと細かい塵になって落ちた。異臭はしなかったので、死んでから数刻といったところだろう。
珠世様は奥の方に、こちらに背を向けて蹲っていた。泥濘の中を這うような心地でなんとかそこまで辿り着くと、大丈夫ですか、と珠世様の鈴を振るような声が空気を震わせた。俺は頷きながら、
「…鬼の仕業でしょうか」
「いえ、おそらく山賊でしょう。切りつけられた痕ばかりで、食い荒らされた様子がありません」
人が死ぬ原因は何も鬼の本能ばかりではないのだ。まざまざと見せつけられた心持がしていると、ふと珠世様が何かを抱きかかえていることに気がついた。年端も行かぬ生きた子供が、珠世様の膝に頭を埋めて震えていた。
嫌な予感がして、俺は眉を顰めた。
#1897年
鬼になってから一年が過ぎようとしていたが、一向に俺の体の調子の上向く気配は見られなかった。
身を潜める場所は頻繁に変わり、最早自分がどの辺りにいるのか判然としなかった。珠世様は鬼の親玉に追われているので、ひとところに留まることができないのだ。比較的調子の良い夜を見計らって移動する度、必ず珠世様は悲しそうに頭を下げた。辛い思いをさせてごめんなさい、と。
俺は珠世様と一緒にいられるだけでこんなに幸せなことはないんです。そう伝えようとしたところを、葛葉のきいきい声が邪魔をした。遠出ができることに喜んで興奮しているのだ。俺は初めて会った時と同じように、思いっきり眉を顰めて彼女を睨みつけた。珠世様と同じ時を歩み始めたこの尊い幕開けを、なんだってこんな餓鬼に邪魔されなければいけないのだろう。彼女は年相応に分別がなく、よく駄々をこねては珠世様の柳眉を下げさせていた。
この頃の俺は、糸が切れるように眠りに落ちては、一週間以上目を覚まさないことも珍しくはなかった。葛葉の泣く声と、それを優しく宥める珠世様の鶯舌とを、夢とうつつの狭間で幾度耳にしたかわからない。早くそんなお荷物の餓鬼は捨てちまいましょう。自分のことは棚に上げて、俺は珠世様に訴えた。もちろん、現実で言うと悲しい顔をされるのはわかっていたので、夢の中でだけだ。
石のように重たい瞼を押し上げて目を覚ますと、葛葉の顔がすぐ隣にあって、俺は悲鳴を上げそうになった。すんでのところで飲み込んだのは、彼女が寝息を立てていたからだ。すっかり泣き腫らした顔をしている。大方、我儘が通らず拗ねて俺の寝ているところに潜り込み、そのまま泣き疲れて眠ってしまったに違いない。
珠世様に一日中あやして頂いているくせに、一体なんの不満があるというのだろう。そんなに不満があるなら勝手に出ていってしまえばいい。そうすれば俺は珠世様と二人きりでいられるのに。
一抹の恨みを込めて葛葉の頬をそっと摘んだ。指を離した先の肌のうっすら赤くなったのを見て、ふいに喉の乾きを覚えた。息を呑んだ。
俺の体は生きようとしていた。
#1898年
葛葉は珠世様に手をひかれて歩きながら、忙しなくあちこちに視線をやっている。これだけの人間を見るのはきっと生まれて初めてなのだろう。種々雑多な群衆を食い入るように見つめる葛葉の後ろを、俺は幾分白けた気持ちで歩いている。この頃にはすっかり脳内の霧も晴れて、俺の足取りは確固たるものになっていた。眠気とも無縁の日々が続いていた。その様子に、珠世様はほっと胸を撫で下ろしたようだった。ゆったりと微笑む珠世様をみて、俺の心にも大輪の花が開く心地だった。
隠れ家を出る前には腹が空いたと喚いていた葛葉だったが、町の雑踏に圧倒されてそんなことは忘れてしまったようだった。それでも、珠世様がうどんの屋台を指差すと、歓声を上げた。珠世様はうどんを一杯頼み、箸で小さく切り分けた麺を葛葉の口元に運ぶ。葛葉はやはりひっきりなしに周囲に気を取られるので、口の周りから胸元までうどんの出汁でべちゃべちゃになってしまう。なのに珠世様は少しも嫌がる素振りもなく、眩しいほどの微笑みを湛えて口元を拭いてやっている。
「あんたたちは食べないのかい?」
屋台の主が、葛葉の横に座る珠世様と、その背後に立ってひたすら不機嫌そうな顔をしている俺をじろりと見て、ふいに言った。
「私達は先程家で頂いてきたもので」
珠世様がにこりと笑って台の上に多めの代金を置くと、店主はしぶしぶといった様子で口を閉ざした。葛葉はきょとんと珠世様を見上げている。余計なことを言うんじゃないぞ、と念じながら、俺はその小さなつむじをじっと見下ろしている。
#1899年
さらさらと紙の上を鉛筆が滑る様子を、葛葉がじっと見つめている。ほら、と紙を渡すと、手に取り嬉しそうに笑った。
「これ、なぁに?」
「ユウガオだ」
「こっちは?」
「…名前は忘れたが、夏に咲く花だ」
「愈史郎は絵が上手」
「お前が下手なだけだ」
葛葉はもうむっとした表情をして泣き喚くことはしなかった。代わりに、聞こえなかったとでも言うかのように、ねぇもっと、と紙をこちらに戻してねだった。やれやれ、と俺もまた大人しく鉛筆をとった。すっかり先の丸くなってしまったのを見留めて、小刀で軽く削った。今夜だけでも何度目かわからない。俺の横に置かれた籠にはすでに削屑がこんもりと山を作っている。
「愈史郎は絵描きになったらいいのに」
「馬鹿言うなよ。この程度でなれたら苦労しない」
「そうなの?こんなに上手なのに」
葛葉はすっかり物分りのよい子供になっていた。もちろんまだまだ腹の立つところはあるけれども、生活は以前と比べると大分滑らかになったように思う。愈史郎と私は陽の光に当たると死んでしまう病気なの、と珠世様が葛葉に語りかけると、彼女は混乱した顔を作ったが、それ以来昼間一緒に外に行きたいとぐずることもなくなった。それどころか、住まいを移す度に、言いつけられたわけでもないのにせっせと日除けの準備にとりかかるので、なんて珠世様の教育は素晴らしいんだろう、と俺は胸を打たれた。
そんな経緯もあったものだから、俺も不本意ではあるが葛葉の子守を引き受けざるを得なかったというわけである。絵を描いてやるようになったのは、紙と鉛筆一本でできるという手軽さもあるが、何よりも葛葉が真剣になって静かになるからだった。そうすれば、別室にいる珠世様もゆっくりと読書や薬の研究に集中できるというものだ。
「ねえ愈史郎、次はネムの花を描いて」
「…知らない」
なぜそんな花を知っているんだ、というつもりでじろりと葛葉を見ると、待ってましたとでも言うかのように、珠世様がお好きな花らしいの、と嬉しそうに笑う。
なるほど、それでは今度調べなければ、と思っていると、
「珠世様の絵を描いて」
なんの脈絡もなく、屈託もない顔でこちらを見上げる、無垢な視線とかちあった。
「…そんな畏れ多いことが、できるか」
葛葉は納得のいかない顔をして鼻に皺を寄せてみせる。誤魔化すように、俺は葛葉の鼻をきゅっと摘んだ。
#1890年
まだ人であった頃、俺は生まれつき体が弱く、床に臥せっていることの多い子供だった。
世界は自分の部屋と暗い天井、障子から見える庭先くらいのものだった。覚えている限り、父と母の俺を見る面持ちはいつも悲痛に満ちていた。何人もの医者が入れ替わり立ち替わり部屋を訪ねて来たが、彼らの表情が変わることはついぞなかった。
外に出て少しでも歩き回ろうものなら、一日も経たぬうちに熱を出して寝込んでしまうのが常であったので、母は俺に書物と紙と鉛筆とを与えた。以来、書物に飽きると鉛筆を取って庭先の様子を写生するのが俺の日常となった。庭に咲く花だけでは退屈だろうと、母はよく他所で花を摘むか買うかしてきては、綺麗に活けて室内に飾ってくれた。花の名前を教えてくれる母と過ごす時間が、人としての生では最も幸せであったと思う。
容態がもうどうしようもなくなって、どこか遠くの療養所に送られることになってからも、その時のことはよく思い出した。自身が、形は違えど、なんとか生き永らえていることを、そして、その療養所が偶然とはいえやがて珠世様が訪れることになる地であったことの感謝を、両親に伝えたいと思うことがある。でも俺は彼らがどこにいるか知らないし、探す術もない。
#1900年
住む処は幾度となく変わったが、俺達の生活はずいぶん楽になっていた。その頃には俺も血鬼術を覚えて、目隠しのような術が使えるようになっていたからである。
とはいえ、結界の中で暮らせるようになってからも、俺たちの生活は安心感が伴う以外の大きな変化はなかった。例えば、珠世様が書物を開く間、俺と葛葉とは鉛筆を持って紙を囲う。夜中人里に降りて仕入れてきた立版古とかビー玉とか、このところ出回りはじめているらしい紙めんこなるものを試してみることもあったけれど、最終的にはこの白黒の世界に戻ることが多かった。葛葉はなぜか飽きもせず、俺の描いた絵を描き写すのが楽しいようだった。
その日も、俺たちは紙を前に座っていた。俺が鉛筆の先を削りながら、さて今日はなにを描こうかと頭を捻っていると、葛葉が真剣な面持ちですでに紙に鉛筆を滑らせていた。おや、と思って覗き込むと、見たことのない景色が描き出されつつあった。
「昼間に行った町の様子よ」
絶句している俺を見て、葛葉が不思議そうに首を傾げた。
葛葉が眠っている間、珠世様が俺ひとりを呼び出したのは、それからまもなくのことだった。
「葛葉はだいぶ大きくなりました」
珠世様の意図がわかって、俺は膝の上で手を握りしめた。
「なら、鬼にすればいいのです」
珠世様は悲しそうに首を横に振った。なんとなくその反応は予想していたが、にも関わらず俺は食い下がっていた。
「あなたが鬼になったのだって、奇跡のようなものなのですよ」
「…でも」
「彼女はまだ分別がつきません。鬼になることの意味を理解するには、まだ稚すぎる」
「理解できるまで待てばいいんです」
「それよりも前に、血を啜って生きる私達に疑問を抱くようになるでしょう」
珠世様は断固として首を縦には降らなかった。珠世様だって亡くなった自身の子供を重ねて葛葉を連れ回していたはずだ。足手纏いを増やすことの危険だってわざわざ冒していた。なのに、考えは揺るぎないようだった。
いくつかの応酬のあと、珠世様は愁いの表情を顔いっぱいに浮かべて、俺をじっと見つめた。分からず屋の俺を怒っているわけではなかった。その証拠に、顔は青ざめて、唇は震えていた。何かを言おう、言うにしてもどう言おうか、逡巡しているのだと気づいて、俺は口を噤んだ。
やがて、愈史郎、と珠世様は俺の名を呼んだ。
「愛していれば愛しているほど…あなたは後悔しますよ。幸福にしてあげられないもどかしさに」
まるでこの世の優しさと悲しさをかき集めて作ったような、玉のごとき声だった。
#1901年
葛葉が目を覚ますと、嗅いだことのない馨しい香りが辺りを漂っていた。頭がくらくらした。それでもなんとか起き上がると、枕元で人影が動いた。
女性の着物を着ていたので珠世様かと思ったら、見たこともない人間だった。無数の皺が刻まれている、それは老婆だった。葛葉が目を覚ましたのを見て、老婆は顔を更に皺でくしゃくしゃにして涙を流し、喜んだ。
息子一家が強盗に襲われて全員非業の死を遂げた。それを聞いて絶望したが、一人だけ生き残った孫娘がいると、親切な方が送り届けて下さった。本当に良かった。そんなことを咽び泣きの合間に語っている。
葛葉は訳がわからず布団を飛び出すと、襖を開けて廊下に飛び出した。愈史郎はどこだろう。背後で老婆が弱々しく声を上げるやいなや、どこからともなく若い人間が出てきて、葛葉を優しく抱きとめた。葛葉はもがき蹴飛ばしあがいたが、その人間…使用人は構わず葛葉を老婆のもとに戻した。
家族が亡くなって混乱しているのでしょう。大丈夫。時間が解決してくれます。そんな声が聞こえた気がして、葛葉は助けを求めようと口を開いた。確かに誰かの名を呼ぼうとしたのに、なぜかその名前が口をついて出ることはなかった。葛葉は愕然として、ただ泣き喚くしかできなかった。
俺は無言で術を解いた。途端、それまで繰り広げられていた葛葉の攻防戦は水面を揺らすように消え、あとは元の畳が横たわるばかりになった。
向かい側で同じ光景を覗き込んでいた珠世様も、緊張の糸が解けたかのようにふっと息をついた。俺は珠世様をじっと見た。先程の老婆は葛葉の本当の家族ではない。最近一家全員を病でなくし、生きる意味を失っていた老婆を見つけてきたのは俺だ。そこに、珠世様が術をかけた。
俺の目が語ることに気づいたのだろう、珠世様はうっすらと微笑んだ。
紅涙を絞る珠世様は、すべての悲しみを抱きとめて、今日もお美しい。