※最終巻のネタバレを含むのでご注意下さい。愈史郎のその後の一部は創作です。
※ポ.ー.の.一.族パロです。
※ヒロインは老婆。
#1955年
特に用事があったわけではないが、陽が沈んだのを確認して俺は町へ出た。
輝利哉に見つかるとやれ伴を付けさせろだの自分も行くだの面倒臭いことになることはわかっていたので、裏の勝手口をこっそりとくぐった。部屋の隅で丸くなっていた茶々丸は、盗人のように身を潜めて動く主人をちらりと見ただけであった。心得顔でゆったりと尻尾を揺らす相棒を、俺はとても頼もしく思う。
木枯らしの強く吹く夜だった。
行く当てもなく切符を買い、電車に乗っていくつかの駅と風景を見送った。やがて車輪の振動に身を任せているのにも飽き、適当な駅で降りて往来に出たところで、俺は足を止めた。
はじめは見間違いかと思った。
さほど明るくない街灯に、それでもぼんやりと照らし出されるその母娘連れを、俺は動くこともできずに凝視していた。
道の真ん中で馬鹿みたいに突っ立っている俺に、向こうから歩いてくる彼女らもすぐに気がついた。母親に手を引かれた少女が訝しげに俺を見上げる。目が合った途端、まるで落雷に貫かれたような衝撃が走った。
「…葛葉」
思わず呟いていた。
別れた時の葛葉と寸分違わぬ姿の少女は唇をぎゅっと引き結び、警戒するように母親の後ろに隠れた。俺と娘とを交互に見た母親は、服の裾を掴んでくる小さな手に触れながら、ええと、と戸惑う声を出す。
その声で我に返り、俺はすぐさま謝罪の言葉を口にした。そして踵を返す。馬鹿げた話だ。葛葉と別れてから、すでに50年以上は経っている。他人の空似に違いない。
足早に去ろうとすると、後ろから声が上がった。
「…それは私の母の名前です」
母親が驚いた顔でこちらを見つめていた。声を出せずに、けれどその場を去ることも出来なくなった俺を見かねて、母親は俺の近くに歩み寄って来る。
「私達は、この近くで西洋料理店を営んでいます。戦争で家を焼かれて、親戚を頼って10年前にこちらに出てきました。生家は阿佐ヶ谷の方です。母もその辺りで育ったと聞いています」
なぜ急に身の上話を始めるのか。その真っ直ぐな視線にたじろいだが、すぐに俺の呟いた名前が人違いでないか確認しようとしているのだということに思い当たった。
「この子は自分の子供の頃に瓜二つだと、母がよく言っています…もしかして、母のお知り合いですか?」
こんな若い男のあなたがなぜ?、と、視線は言外に語っている。
澄んだ瞳を見下ろしながら、俺は言うべき言葉を探していた。なんて言ったら良いか、まったく見当がつかなかった。葛葉と別れた(置き去りにした、といった方が適切かもしれない)屋敷は、たしかにここより西の方ではあったように思う。だからと言って、それだけで肯定の返事を返すのは、どうなのか。そもそも、言ったところで、どうなるというのか。
長いあいだ回答に窮している俺を見て、女が何を思ったのかはわからなかった。ただ、この場を去る気配のないことから、不審感だけではないらしいということだけはわかった。
ふいに、足元で小さな声があがった。見れば、葛葉―と同じ顔をした子供―が、母親の服の裾を引っ張っていた。寒いから早く帰ろう、とむずかっているのだ。
母親は子供を抱き上げると、俺を見て小さく笑った。
「私の母って、やっぱり、不思議な人だわ」
眉を顰めた俺を見て、女はなおも笑顔を見せる。
「よく、変な話をするんです。まるで別の世界のような話です。戦争中なんかは防空壕に隠れている時、私が怖くないようにって、ずっと自分が子供の頃の話をしてくれていたので、よく覚えています。どう考えても現実にない頓珍漢な話なのに、すごく現実的でした。なんでも、母は子供の頃ずっと小鳥と旅をしていたそうなんです」
「…小鳥?」
「どこか遠い夜の森の中で、二羽の小鳥に育てられたんだそうですよ」
ね、不思議な人でしょう。女はくすくすと笑った。馬鹿にしているとか、はなから狂人の戯言と決めつけているとか、そういう雰囲気ではなかった。仕様のない人なんですよと、言いながらも本当に困ってはいない。もう何十年も見ていない暖かな陽の光を連想させるのだ。
何かがどこかで、するりと抜け落ちるような感覚がした。胃の中が軽くなったような、視界が開けたような、そんな心地だ。
「…よかった」
やっとのことで、その一言だけを喉から絞り出した。目の前の女はぱちくりと目を瞬かせる。我ながらあまりに言葉が足りていないことを実感し、なんだか笑ってしまった。
そんなこちらの様子を見て、女も微笑みを浮かべる。
「会っていかれますか?お店はすぐそこです」
「いや、遠慮しておく」
「お言付けは?」
迷いのない力強い声に、しかし強制力は働かなかった。賢い女だ、と思った。俺が無言で首を振り、彼女達から遠ざかっても、もうそれ以上追及しようとはしなかった。
本当に、よかった。
砂利道を踏みしめながら、俺は胸の中で繰り返していた。何度も。
#1970年
夜の世界に交じって長く、幽霊より凄惨な化け物を数多く見てきた身であっても、やはり夜の墓地というのは気持ちのいいところではない。手元の紙を頼りに目的の墓石に辿り着くと、花を供え、俺は目を閉じて手を合わせた。足元でチリンと鈴が鳴ったので、目を開けてそちらを見やる。茶々丸も神妙な面持ちで墓石を見上げていた。
「長生きしたな、葛葉」
語りかけながら、本当は来るつもりはなかったんだからな、と誰が見ているわけでもないのに心の中で呟く。言い訳ではなく、事実だった。放浪の旅から東京に戻り着いて、長年の習慣でふらりと産屋敷の家に立ち寄った。60歳も過ぎると、2年3年経ったところで見た目は大して変わらんな、なんて失礼なことを考えながら茶を飲んでいたら、何の脈絡もなく折り畳まれた紙切れを卓袱台の上に差し出された。少し前に茶飲みついでに話した四方山話を律儀に覚えていて、どうやらこっそり葛葉の家の様子を気にかけていたらしい。
俺は紙を開き、中を見てから、すぐにまた丁寧に折り畳んで机の上に戻した。
「これだからお節介の金持ちは困る」
軽口を叩くと、
「もうお節介なんて、愈史郎さんくらいにしかできなくなってしまいましたよ」
輝利哉は寂しそうに笑った。
その紙には墓地の名前と、葛葉の眠る場所までの道筋が記してあった。
輝利哉の言う通り、知った顔はもう全員この世から去ってしまっていた。もちろん彼らの最期を自身の目で見届けたわけではない。すべては輝利哉の口から伝聞で語られたに過ぎない。
そういえば、葛葉のことを長生きと言ったが、もはや何をもって長命といい、何をもって短命と見做すか、俺にはよくわからなくなっていた。これだけ長く生きていると時間の感覚はすっかり曖昧になっていて、そうかあいつはやはり早死したんだなと思って聞いていたら実は大往生だった、ということも幾度かあった。
「産屋敷家の人間は長くは生きられないので、あなたとお会いするのはきっとこれが最後でしょう」、と毎回よよよと泣いてみせた輝利哉は、大戦も戦後の混乱もしぶとく生き抜き、いまだにぴんぴんしている。
かと思えば、永遠の命を与えられたはずの女性はあの戦いで塵と消えた。一番多くの命を救い、一番長く生きるべきであった少年もまた、随分昔に土に還ってしまった。
「…みんな俺より先に逝ってしまうな」
言ってから、予想以上に淋しげに響いてしまったので俺は驚いた。足元でまた鈴が鳴り、見れば茶々丸が今度は心配そうにこちらを見上げている。大丈夫だ、と言いながら、俺は茶々丸の頭を撫でてやる。
「俺は珠世様に幸せにして頂いたんだ…おまえも、葛葉も、な」
葛葉。
綺麗に手入れされた様子から、あの子供や孫たちに見守られながら最期の時を過ごした様子が浮かんできた。
ふと、思い出して胸元から一枚の紙切れを取り出した。輝利哉に渡された地図とは別の、夜を待つ間に手慰みに描いた絵だ。何十年も前にねだられて、描けなかった絵。あるいは、描くのを拒んだ絵。
微笑む珠世様が浮かび上がるそれを、俺は供えた花束の隙間に挟んだ。そうして、久しぶりに見る珠世様のお顔を、しばらく眺めた。久しぶりに絵を描いたが、構えていたよりも遥かになめらかに筆が滑ったのには驚いた。そして自分の記憶の中にしかいない珠世様を映し出せたことに、さらに驚いた。
正直、描けないと思っていた。途中で筆が止まると思っていた。珠世様を失った傷はもう一生消えることがないだろう、一生影のように引きずって生きるのだろう。そう確信していたからだった。しかし思いに反してすらすらと筆は動いた。時間というものの力を痛い程思い知らされた。
少し前までは、この震災の復興を手伝ったら死のうか、この大戦が終わったら死のうか、と太陽の下に歩み出る時機をどこか見計らっていたかのように思う。なにが転機だったか最早定かではないが、いつの間にかそんな気持ちはどこかへ消え失せていた。輝利哉の死を見届けたら、と考えたこともあったが、それすらももうどうでもよくなっていた。結局は、炭治郎に言われたあの一言に集約してしまうのだ。あの何の面白みもない、率直な一言に。
葛葉もそうだ。葛葉の娘の、終始まっすぐに俺を見つめていた瞳はひどく澄んでいた。当時はどこか懐かしいような悲しいような、居心地の悪さを感じただけだったが、最近になってようやくその理由がわかった気がする。血は繋がっていなくとも、葛葉は珠世様の賢明さや優しさをこの世に繋いでいたのだ。
紙に描かれた珠世様を指でなぞる。本当は葛葉も隣に寄り添わせるつもりだった。でも、何度試し書きをしてもだめだった。珠世様と同じく死んでも忘れないだろうと思っていた彼女の姿は、取り返しがつかない程に色褪せてしまっていた。時は傷口から滴る血を拭うが、同時に大事な宝物もひとつずつ奪っていく。それは葛葉がこの世を去ったことよりもずっと悲しいことのように感じられた。
そう思うと、珠世様の絵もなんだか違う人間のように思えてくる。見れば見るほど、珠世様の鼻筋はもっと通っていたような気がしてくるし、それに瞳はもっと深い慈愛を湛えてはいなかっただろうか。
ふいに、もっと描かなければ、という思いが胸をついた。
時に風化させられてしまう前に、珠世様のすべてをこの世に遺さなくてはならない。この世のあらゆる美しさと悲しみを秘めた女性の絵を、俺は描かなくてはならない。
途方もない使命のようだったが、不思議と障壁は感じられなかった。老いも死もないこの身に感謝したのは、ずいぶん久しぶりだ。