Somewhere not here


どこか遠くに行ってしまいたい、と言った女がいた。


過去の話で、まだ俺が軍人だった頃の話だ。女は港町でバルを営んでいた。その港町は同盟国の海軍基地と隣接していたので、任務や訓練に支障のない範囲で、滞在中は夜な夜な仲間達と繰り出していた。
どこか遠くに行ってしまいたいと言った女に向かって、行きたい所があるなら行けばいい、と俺は答えた。実際、彼女の作る料理はどれも絶品で、酒の目利きも若い割には確かなものだった。どこへ行っても生きていけるだろうと思った。すると女は小さく笑った。苦笑いだと気付いたのは、女の目に哀れみの色が混じっていたからだった。
「ここじゃないどこかって感覚、理鶯には一生わからないんでしょうね」
そう言ってするりと立ち上がり、砂浜を慣れた足取りで歩く。そう、確かあれは海岸で、夜のことだった。辺りは暗く沈んでいて、空には月が輝いていた。
よく見れば、女は裸足だった。俺の足元に赤いミュールが無造作に脱ぎ捨てられていた。怪我をするぞという言葉は、当然のように無視された。
女は波打ち際まで歩いて、踝が海水に浸るあたりで立ち止まった。星空を背景に佇む姿は、水平線の向こうを眺めているようだった。『どこか遠く』を見ているのかもしれないし、何も見ていないのかもしれなかった。あるいは遠征中に帰らぬ人となった彼女の夫のことを考えていたのかもしれなかった。俺はあいつが眠る海の位置を知っているが、彼女に伝えることは固く禁じられていた。
「今から港に行って、適当な船に乗ってしまおうかしら」
俺が隣に立つと、なおも女は妄想の続きの話をした。
しばらくして、
「一番大きくて、一番遠くに連れて行ってくれそうな船がいいわね。理鶯、一緒に行かない?」
そう言ってこちらを見上げた。
「無理だな」
俺が答えると、女はつまらなそうな顔をした。
「そんな即答しなくても」
ぽつりと呟いて、口を尖らせてみせる。
「理鶯って優しいけど、嘘はついてくれないのね」
「嘘?」
「そう、嘘。優しい嘘。嘘でもいいから、どこへでも、って言って欲しかったわ」
「それは違う」
彼女は驚いた顔をした。俺があまりに確信に満ちた声で言ったからだ。
「貴女はそんなことは望んでいない」
彼女は肩を僅かに振るわせたが、それでも言葉は返ってこなかった。
先程とは少し異なった、けれど相変わらず曖昧な表情を手放さず、じっと黙り込んでいた。



そういえば、彼女は南国訛りの英語で、リオ、と俺の名前を発音した。アメリカ人の父ともまた違った発音だった。ウの音がどこかに忘れさられているところは同じだったが、Rが巻き舌になるところが違っていた。
「理鶯って、鈍いだけだと思ってたわ」
ミュールを拾って砂を落としながら、その心地よい音で俺の名を呼んだ彼女は、最後に笑顔を見せた。最後だが、その日初めて見る笑顔だった。もしかしたら彼の訃報が届いてから初めての笑顔だったかも知れない。
彼女の冗談が可笑しかったので、俺も笑った。
かつてあいつが生きていた頃、彼女の手を取りどこか遠くへ連れ去ってしまいたいと一度だけ考えたことを、俺は伝えなかった。