Primum Non Nocere

ゼロサム8月号のコミカライズの内容を含みます





花村さんは、いつも不機嫌そうな顔をしていた。
眉と眉の間に大きな皺を作り、三白眼で私を睨みつける。声を荒らげることも多かったけれど、なぜ彼女が怒っているのか理解できた試しがなかった。てっきり生来の彼女の性質なのだろうと思っていたが、同僚と談笑しているところには頻回に出くわした。ということは、彼女の苛立ちは私のみに一直線に向いていたということになる。
私が衛生兵としてはじめて配属された部隊に、花村さんはいた。初対面で彼女のことは深く記憶に刻まれた。同じ衛生兵であるということや、年が近かったということ、教えを乞うべき先輩であったからということや、女性兵が珍しかったというだけが理由ではない。
自己紹介を兼ねた挨拶を交わした瞬間、彼女は思いっきり私を睨みつけた。
「日本最高学府の医学生さまが?」
正直なところ、あぁまただ、と最初は思った。志願してから戦地に至るまで、奇怪なものを見るような視線を寄越す上官は、山程いた。日本から戦地に運ばれる飛行機の中でも、疑心に塗れた視線や揶揄の言葉に、数多く晒された。
「輝かしい未来と、安全が約束されているのに……」
彼女の言葉は、間違いなくそれらと同じものに分類されているはずだった。しかしなぜか違和感を感じた。苛立ちだけではない別の色が混じっているように見えた……気がしたのだった。
私の勘違いであった可能性は拭えないが、それでも直感を信じた自分は結果的には正しかったと思っている。

行動を共にするようになって時間が経ってからも、私の一挙一動、一言一句に、変わらず彼女はいちいち腹を立てた。あまりに怒るので、そんなに怒っていて体に差し障りませんか、と思わず気にかけてしまったくらいだ。そうしたら一際鋭い眼光で睨みつけられた。毒霧でも吐き出しそうな勢いだった。
しかしいくら怒号を浴びせられても、嫌な気持ちは沸き上がらなかった。ひっきりなしにがなり立てる合間に、物資の在り処やオペレーションの細々とした部分、戦地で自身の身を守るための最大限の術を、彼女は仏頂面で口にした。ぼそぼそと、まるで独り言を言っているかのように。
ありがとうございます、とその小さな背中に向けて伝えても、返事が返ってきたことは一度もなかった。





「大丈夫ですか?」
深夜の当番を終えて、休憩室で椅子に腰掛けた時だった。
ステンレスマグにポットからお茶を注ぎ、こちらに突き出してきた手の青白さに、私は思わず口を開いていた。
花村さんはじろりとこちらを一瞥し、「あなたに心配される筋合いはない」テーブルにマグを乗せた。予想通りの反応ではあったが、どこか覇気がなかった。さすがの彼女も、深夜3時に怒鳴る元気は持ち合わせていないようだった。
「神宮寺は思ったよりも平気そうね」
ランタンの灯りが、彼女の横顔を照らして揺れていた。
「ガリ勉なんてすぐに音を上げて帰国すると思っていたのに」
「一応、学生自体もスポーツは嗜んでいましたよ」
「へえ、何のスポーツ?」
「野球、サッカー、バレー、柔道、剣道、陸上競技、なんでもやりましたよ。特定の部活には所属していませんでしたが、よく大会の時にはピンチヒッターとして呼ばれていましたので」
「…大会?」
「甲子園に出たこともありますよ」
彼女は私を無言で見つめた。暗闇の中で目を凝らす必要もなく、眉間にはやはり深い皺が刻まれていた。
ズズ、と熱い茶を啜ると、彼女はため息をついた。
「神は二物を与えずっていうけど、あれ嘘ね」
「どういう意味でしょう?」
彼女は答えなかった。やはり今日の花村さんはとても疲れているように見えた。
花村さんはなぜ軍に?」
怒号が飛んでこないことに味をしめたのかもしれない。ずっと気になっていたことを、私は自然と口にしていた。彼女は無言でランタンの炎を見つめていた。無視は想定の範囲内だったが、少ししてから、あのね、と静かな声が空気を震わせた。
「あんまりそういう質問は、人にしない方がいいよ」
「なぜでしょうか」
「選べて来ている人ばかりじゃないから」
「…花村さんは選んで来ている人のように見えました」
微かに意表をつかれた悔しさのような気配を感じた。しかし彼女は口を引き結んだままだった。答えるつもりのないことは確かだった。
私が笑うと、彼女は咄嗟に、あのね、とまた声を上げた。
「わたしは神宮寺がここに来た理由に興味はないから、勝手に喋らないでよね」
「おや、つられて話して下さるかと思いましたが、駄目でしょうか」
それから彼女は口を引き結び、ただただ飲み物と簡易食料を消費するだけの時間が流れた。飲み食いするだけなら、包みを持って自分のテントに戻ればいいのに、私たちはどちらも腰を上げようとしなかった。
私たちは今日、命の選別をした。モルヒネは限られている。





戦線から戻ると、キャンプは喧騒でごった返していた。罵声と怒号が飛び、担架に乗った兵たちが野戦病院に担ぎ込まれていく。病院とは名ばかりのプレハブの施設だ。入り切らず、そこらじゅう傷病兵で溢れかえるのも、時間の問題だった。
ぼんやりとそんな様子を眺めていると、人混みの中に花村さんの姿をみとめた。
担架の運び先を、相変わらずてきぱきと指示している。何回かに一回は、唇を噛んで首を横に振った。
なんの前触れもなく彼女の目がこちらを向いて、遠巻きながらもしっかりと目が合った。途端、彼女は驚いた表情をした。こちらに駆け寄ろうと重心を変えたのがわかった。しかし丁度なだれ込んできた担架の波に、あっという間に彼女の姿は飲まれた。

その日の深夜、自分のテントで仮眠をとるために横たわっていると、誰かが入ってくる気配を感じた。
目を開けて見るまでもなく、彼女だとすぐにわかった。彼女は静かにこちらに近づき、私の上に馬乗りになった。暗闇の中、するすると私の服を脱がせていく。
体は鉛のように重い。されるがまま彼女の指の這うのを眺めていたが、さすがにベルトに手がかかった瞬間、やめてください、と掠れ声が出た。
彼女は手を止めて、こちらを無言で見下ろしていた。なぜ、とふたつの瞳が問うている。なぜだろう、と朦朧とした頭で考えた。そう、テントを共有している同僚のことを気にしたのだった。しかしよく考えたら、彼は少し前に帰らぬ人となっては、いなかったか。
私はのろのろと両腕を上げて、彼女の頬を覆った。そのまま輪郭をなぞるように掌を落とし、露わになった胸元に左手をあてた。彼女の肌は、あたたかかった。そして、力強い鼓動を感じた。生きているものの証だった。けれど少し波紋を送ってしまえば、いとも簡単にこの動きは止まるのだ。致命傷を負った兵達をトリアージするのとは違う。進んで命を奪う方法を、知ってしまった。
彼女が、自分の掌を私の手の甲に重ねた。
「…はじめてだったのね」
上半身を折り畳み、耳元で囁く。
「大丈夫よ…あなたは、何も変わってない」





出兵から一年程が経ち、キャンプは幾度となく場所を移し、味方の顔ぶれも随分と変わったが、戦火拡大の勢いは衰える気配がなかった。この戦線を制圧すれば利は我らにあり、という司令官の言葉は、もう何度聞いたかしれない。踊らされている者がいれば新任の兵が入ったのだなと思い、まだ兵士補充の余力のあることにとりあえずは安堵の息を漏らす。上からの演説を、その程度の役割にしか思えなくなっていた。
深夜の当番の休憩時間を、いつもの通り共有スペースで過ごしていると、花村さんがやってきた。ステンレスマグにコーヒーを注いで、私の隣に腰を下ろす。
「コーヒーを飲んだら、眠れなくなりますよ」
「神宮寺だって飲んでる」
私のマグを指差して、彼女は不機嫌そうにこぼす。
「私はまだ仕事が残っているからいいんですよ」
彼女は、ふん、と鼻を鳴らして、これ見よがしにマグに口をつけた。その様子を見ながら、私もコーヒーを胃に流し込む。
「ひとつ、忠告してもいい?」
飲みかけのマグをテーブルに置くと、彼女は唐突に口を開いた。
「なんでしょうか」
「月並みだけど、抱えすぎないこと」
花村さんが弱音を吐いているところも、見たことはありませんよ」
「わたしの話はいいの。ここで起きたこと、日本に帰っても、悔いたり恥じたりしてはだめ。誰かに聞いてもらうのよ。家族でも、友達でも、恋人でもね」
日本で勉学に励んでいる友人の姿が脳裏に浮かんだが、私は首を横に振った。漠然とした既視感が喚起されていた。神でない私は争いを終わらせることはできない。それどころか、目の前の人すら救えた試しだって、ない。
花村さんでは、駄目でしょうか」
彼女は答えなかった。
手を伸ばそうとしたところで、
「おい、神宮寺」
同じ隊の衛生兵が、仕切り布を持ち上げて、顔を覗かせた。
「神宮寺、軍曹が呼んでる」
笑って、すぐ行きます、と答えると、彼はぐるりと休憩所を見渡して、不思議そうに首を傾げた。
「今、誰か他にいたか?」
訝しげな視線の先にあるのは、簡易テーブルの上で湯気をたてる私のコーヒーだ。マグはひとつしかない。横にドッグタグがひとつ、無言で佇んでいる。彼が顔を曇らせたのがわかったので、私は頬を掻いた。
「どうも最近、独り言が増えましてね」