「兵藤さん、わたしあの男が欲しい」
背後から女の声がはっきりと届いた。少し間をおいて、耄碌爺の下卑た、しかしやや余所行きの笑い声が続く。
「おい」
名前は呼ばれないが、こちらに向けられた声だとすぐにわかった。幾度となく繰り返された光景だから、とか、爺が俺にだけ向ける特有の嗜虐性が声に滲んでいたから、とか、理由をあげればキリがないが、すぐに返事をしてテーブルに向かった。頭を深々と下げた俺に、爺は多くを語らない。
「粗相のないようにな」
当たり前だクソジジイ。
暴言を笑顔でコーティングすることも、すっかり慣れたものだ。顔を上げると、兵藤の後ろに座る女と目が合った。一瞬、俺は動けなくなった。
驚いたのは、珍しく俺と同年代の女が今夜の相手だとわかったからではない。いつもの、こちらを品定めする絶対的優越感の漂う表情はそこにはなく、ただこちらを睨みつける女の姿があった。
欲求不満の婆だろうが、成金の勘違い女だろうが、資産家の娘だろうが、服を脱いでしまえばやることは変わらない。ベッドサイドテーブルの煙草を引き寄せて火を点けると、わたしも、と寝そべったままの女が宣う。煙草の箱を向けると、箱を一瞥して、火をつけて寄越しなさい、と憤然としている。少し考えて、今しがた火を点けたばかりの自分の煙草を女の口元に差し出した。すると今度はすんなりと受け入れられた。
「鞄を取ってきて」
一本吸い切った途端、さらにそんなことを言う。薄暗いのをいいことに、うんざりした表情を繕うこともなくベッドから立ち上がり、スイートルームの続きの間のソファに鎮座するプラダを手に取った。途中、鏡に写った自分の裸体の気色悪さに反吐が出そうになる。
女は礼もなく鞄を開く。妙なプレイで二回戦は御免だぞ、と俺は内心毒づいている。はたして出てきたのは小瓶だった。真っ赤な小瓶。マニキュアだ。マニキュアに模した性具、と奇をてらったわけでもない。何の変哲もない小瓶。
「塗って」
有無を言わさない声色だった。もとよりこちらに拒否権などないのに、わざわざ権力を誇示してご苦労なことだ。
膝に乗せた枕の上に手を置き、その細い一本に刷毛を滑らせていく。入社以来すっかりささくれ立ってしまった俺の指と違い、雑事に惑わされることのない彼女の手は白く柔らかい。
「慣れているのね」
俺の手元を(それは彼女の手元でもあるのだが)、食い入るように見つめていた女は、しみじみと感心の声を漏らした。
ふいに、
「一条。わたしあなたのパトロンになってあげるわ」
と、女は藪から棒に言った。あまりに脈絡がなかったものだから、うっかり赤色が指の方にはみ出てしまった。しかし彼女は気にした様子もなく、まっすぐに俺の方を見ている。
「お断りいたします」
ティッシュではみ出したマニキュアを拭き取りながら間髪入れずに返したが、女にひるんだ様子はなかった。それでも、なんで、と社交辞令のように感情の混じらない声で問う。
「私は自分の力でのし上がるんです。顔につられて群がってくる女なんかに力は借りません」
マニキュアを塗る手は止めずに、勝ち誇った声色で告げると、
「顔?」
一転、女は驚いた表情になった。目を大きくして、まじまじとこちらを覗き込む。
「わたしが顔目当てであなたを買ったと思ってたの?」
純度100%の驚愕、といったふうだった。返事に窮している俺を見て、ふふっと笑った。たまらず吹き出した、といった方が正しいかもしれない。俺は顔が耳まで赤くなるのを感じている。
「わたしね、隣にいた村上ってやつの方が好みよ。ガタイがいい方が好きなの」
「は?」
「それにあなた、下手だったし」
「はぁぁ?!」
「あなた、抱かれる方が多いでしょう」
「おい、調子乗って好き勝手言ってんじゃねぇぞ」
歯を食いしばり、睨みつけると、意外なことに女はさらに唇を引き上げて笑った。そう、その目よ。
「あなたずっと、そんな目をしていた。野心に燃えた、獣の目」
女はこちらの殺気も意に介さず、満足そうな顔で俺を見ている。
幾ばくかのにらみ合いののち、手を俺の顔面に突き出した女は、すでにこれまでと同じ無表情に戻っていた。
「手を休めないでね」
仕方なく、俺は残りの爪を染める作業に戻った。パトロン云々の議論の決着は霧の中だったが、そこからは彼女も無言であった。
やがて十本目の爪、左手の小指を塗り終え、キャップを締めると、
「なにやってるの」
女は憮然と俺を見た。こっちもよ。白いシーツの間から、一層白い足がぬるりと生える。舌打ちをし、跪く。
「のし上がるわよ、わたしたち」
水面をそっと揺らすような、静かな声だった。しかしどこか血が滲んでいるようだと、はたと気づく。
獣の目で俺を、兵藤たちを見ていたのは、この女の方ではなかったか。
「いいわね、一条」
女はまるで自分に言い聞かせるようだ。
「……言われなくても」
こんな世界、ひっくり返してやるよ。