残像

 帝愛に入ってからというもの、暴力はすっかり日常の一部に成り下がっていたが、村上が血塗れの人間を抱えて店長室に入ってきた時にはさすがに閉口した。
 帰宅途中、カジノ近くの路地で暴行にあっていた現場に遭遇したらしい。村上に声をかけられた加害者の中年男性は慌てて逃げていったが、全身強かに殴打をうけた被害者は動けずその場に残った、ということだった。
 放っておけ、と言うと、村上は抗議の視線を一条に向けた。奴の腕の中のボロ雑巾はまだ年若い女だ。どうせ碌な人間じゃないだろうに、何かが奴の同情心を買ったらしい。
 なら公衆電話から119番して適当な場所に放り出しておけばよかっただろう、と無慈悲に言うと、村上ははっとした顔をした。そしてたちまち、申し訳なさそうに肩を落とした。大方、動転して何も考えずそのまま持って帰って来てしまったのだろう。そんな奴の様子なら簡単に想像できた。
 大きな図体を縮こませて右往左往する村上を見て、一条は舌打ちをした。
「お前の給料から天引きするからな」
 スマホを手に取り、闇医者の番号を探す。舌打ちの直前になぜか一条の脳裏を過ったのは、かつて村上がモモ太を持ち帰ってきた日のことだった。
 



 その女は幸い命に別状はなく、ついでにいうなら陵辱の跡もないそうだった(聞いてもいないのに、何故か闇医者はその部分を強調した)。
 以来、女は村上の部屋に置かれることになった。闇医者のところに泊まらせると膨大な金をとられるので、当然の結果ではある。
「ありがとうございます」
 顔のほとんどをガーゼと包帯で覆った女はそれでもわずかに目を細め、一条に丁寧に頭を下げた。一条は女の枕元の椅子に腰掛けていたのだったが、それには応えず、ぐるりと部屋を眺めた。帝愛に入社してすぐルームシェアは解消していたので、ここはかつての六畳一Kの部屋ではない。帝愛に入ったばかりの頃は何かと互いの部屋に足を運んでは安酒片手に管を巻いたものだったが、カジノを任されてからというもの、二人同時に店を抜けることは難しく、よく考えれば一条が村上の部屋に入るのは随分久しぶりのことだった。今となっては、見覚えのない物の方が圧倒的に多い。
 なんで久々に来ることなかったかといえば、村上のシフトと闇医者の往診時間が被り、立ち会いを頼み込まれたからだった。一条さんしかいないんス、と言われたら、一条は昔から村上に弱い。しぶしぶ鍵を受け取っていたというわけだ。同時に、こんなことでもなければ村上の部屋を訪ねることもなかったろうか、と途方のない気持ちになってもいる。ふいに居心地の悪さを覚えて、先程無視した女に視線を戻した。
 こちらの心の機微を何も知らない女は、村上のベッドに横たわりながら、にこにこと笑っていた。顔のほとんどは包帯に覆われていたので、笑っている雰囲気を漂わせていた、と言った方が正確かもしれない。なんでも、とあるカジノのディーラーだったが、負けの込んだ客に逆恨みされて帰り道に襲われたのだそうだ。
 それは災難だったな、と半分バカにした気持ちで言えば、ううん、ラッキーだった、と女はけろりと答える。
「本当に恨んでいたら、指を折るか切り落とすかするから」
 所詮、むしゃくしゃして酔っ払った勢いの腹いせって感じね。
 肋骨何本かと他にもいくつか骨折をこさえた女は、あっけらかんとしている。薄気味悪ささえ覚えて、一条はさらに落ち着かない気持ちになった。
「いかさましたのか?」
「テクニックって言ってほしいな」
「因果応報じゃないか」
「マナーが悪かったからこらしめてやろうと思ったの。因果応報はあっちの方」
「その感じだと真っ当なカジノじゃなさそうだな」
「帝愛以外にも裏カジノは結構あるよ。暴力団関係とかね」
 こちらの素性はわかっているらしい。なるほど、正規の病院にいないのに一切の不安を窺わせないのは、そういうことか。
「じゃあ遠慮はいらないな」
 一条は徐に鞄から紙を取り出して女の枕元に置いた。
「治療費の請求書だ」
 闇医者の費用を、村上の給料ごときで賄えるわけがないのだ。当の村上が気づいているかは知らないが、少なくとも確認はしなくてよくなった。
 ゼロがずらりと並んだ紙を、女は面白そうな目で見ていた。苦しめようと思ってやったのにつまらないな、と一条は苛立っていた。
 女はしばらくして、困ったな、と少しも困ってない口ぶりで呟く。
「こんなことあったら前のお店には戻れないし、ていうか無断欠勤してるからとっくにクビだろうし」
 どこかは説明口調なのだった。
「いい闇金なら紹介してやるぞ」
「いい闇金って何?」
 女はくすくすと笑う。
「ね、わたしの体で返すのはダメ?」
「は?いるか」
「あれ、なんか変な想像させちゃった?そういうんじゃなくて、いい仕事するよ、わたし。パーフェクトシャッフルできるし、ルーレットも狙い目できるし」
 笑顔で物騒なことを言う女を見て、一条は口をつぐんでしまう。
 村上がこの女を拾って来た時、間違っても俺はモモ太のことを思い出すべきではなかったのだ、と思う。希望を探して這いずり回っていた愚かなあの頃と今とを、結びつけるべきではなかった。
 上等だ、と呟く。
 何に対して言ったのかは自分でもわからなかったが、女は先程の申し出が肯定されたと捉えたようだった。女の手がゆるゆると伸ばされ、一条のそれに触れる。ひやりと冷たい。死人の手だ、と一条は思った。途端に、色々な記憶が遠くに飲み込まれていくのを感じていた。