ソレイユ・エ・リュヌ

  毎日暑いなぁ、ずっとクーラーの効いた部屋にいたいなぁ。いっそ猫になったら一日中寝てられるんじゃ?そんなことを考えていたせいか、ある日目が覚めたら猫になっていた。




 たしかに猫の歌は出したことあるけど、まさか本当になるとは思わない。鏡に映る姿はあの歌の通り、頭のてっぺんから爪先までつややかに黒く輝く黒猫だった。なのに両目だけ緑がかった金色に光っていて、まるで宝石を埋め込んだみたいだった。我ながら、世界中の魔女が取っ組み合いの喧嘩をしてでも手元に置きたくなるような美しい黒猫なんじゃないかと思う。ま、魔女界の流行なんて知らないから、もちろん想像だけどね。
 そうして願い通りぐだぐだうにゃうにゃしていたけどすぐ飽きてきて、ぴょんと窓から外に飛び出した。あっちへふらふらこっちへふらふら歩いていたら、今度は急にお腹が空いてきて、どうしようかなぁと考えていたら、女の子が歩いていたのでついていくことにした。その子はマンションに入ってもアタシに気づかず、オートロックを開けてエレベーターのボタンを押して自分の部屋のドアを開けた。
 待ってました、と先に部屋に入ると、わっと女の子が悲鳴を上げた。振り返って見上げた女の子は、たぶんアタシより何歳か年上で、ケイトスペードの鞄を持って、ヒールを履いて、ミユさんみたいなきれーなOLってカンジだった。
 目を白黒させていた女の子は、目にも止まらない速さでアタシをクローゼットから出してきた鞄に詰め込むと、あちこちいろんなところを飛び回った。蓋が開く度に違う人とご対面で、たぶん動物の迷子センターとか獣医さんとかに連れて行かれていたんだと思う。あちこち触られて(女の子なのに!)へとへとになって最後に出された場所は記憶に新しいその女の子の部屋で、とりあえず置いてくれることになったのね、と少しほっとした。
 帰るなり、女の子はなにやらPCとにらめっこしながらうんうん唸っていた。近くに寄って手元を覗き込んだら、「猫 拾ったら」とか「猫 飼い方」とか「探し猫」とかいろんな文字が飛び込んできた。勉強熱心でカンシンカンシン。左手に頬を擦り寄せると、女の子は指先でアタシの顎をちょいちょいと撫でてくれた。
 夜になって女の子がキッチンに立ったので、そういえばフレちゃんもお腹空いてたんだった、と思い出してそわそわしていたら、茶色の丸のつぶつぶがお皿に盛られて目の前に置かれた。コレ知ってる。キャットフードだ。なるほどキョーミブカイ匂いだねぇ、なんてシキちゃんの真似をしてふんふん嗅いでみたけど、全然食欲はわかなかった。ひとなめしてみる気もおこらない。猫になったとはいえ、なかなかうまくいかないのは、これすなわちジンセイね。いま猫だけど。
 にゃんて考えていたら、女の子は自分の夕飯を作っているみたいだった。匂い的に、スパゲティミートソースとグリーンサラダだ。たちまち、お腹がぐうと鳴る。なんということでしょう、猫になったのに食の好みは人間の時のままだなんて。
 女の子はテーブルに乗せたお皿の上に料理をきれいに盛り付けると、くるりと振り返って手を洗った。その隙にひらりとテーブルの上に飛び乗って、はぐはぐと食べた。一日ぶりの食事はじんわりと温かくて、止まらなかった。振り返った女の子は目を点にしてアタシの方を見ていたけど、おいしいよ!と鳴いてみせた(にゃーんという音になったけど)。そしたら、たちまち女の子はお腹を抱えて笑い出した。そうして笑いながらもう一人前スパゲティとサラダを作って、二人で並んで食べた。
 こんなに楽しいなら、ずっと猫なのもありかも、なんて思ったりした。




 女の子は毎朝決まった時間に起きて、朝ごはんを作って、メイクをして、ミユさんみたいな格好をして、外に出かけて、夜になると帰ってきて、また夕ごはんを作って、お風呂に入って寝た。お仕事がんばってるんだなぁ、なんて感心するアタシはベッドの上かソファの上かテーブルの上で丸くなっていた。合間に女の子の作ってくれたハムチーズトーストや、昆布おにぎりや、鮭のムニエルなんかをはぐはぐ食べたりした。これだよこれ、この生活よ。アタシの求めていたのは。
 そういえば、夕飯のあと、あるいは夕飯を食べながら、テレビやブルーレイをつけるのも、女の子の日課だった。なんだろうと思ったらアイドルのライブ画像やバラエティの録画やなんかで、中には346プロのみんなもいた。なつかしー、と感慨にふけるフレちゃんの横で、女の子は悲鳴を上げたり、奇声を上げたり、机に突っ伏したり、泣き出したり、嗚咽したり、ツイッターに「推しの新曲、健康になる」と書き込んだりと、とにかく大忙しだ。テレビ画面を見るよりもそっちを見る方が楽しいくらいだった。
 今日もデザートのシャーベットを食べているフレちゃんの横で、女の子はバラエティ番組を見ていた。アタシは、あっ、と思った。シキちゃんが映ったからだった。テロップにはレイジーレイジーと出ているけれど、シキちゃんひとりだ。MCさんの振りに、シキちゃんはいつものようににゃははと笑いながら答えている。客席もどっと沸き立つ。さすがだねぇ、シキちゃん。
 アタシはしみじみとしていたけれど、女の子はいつもと違ってぴたりと動きを止めていた。シキちゃん、あんなにかわいいのにタイプじゃないの?と覗き込むと、なぜか不安そうな顔をしていた。目が合うと、手を伸ばして頭を撫でてくれる。自然、ごろごろと喉が鳴る、猫の性ね。
「早く良くなるといいね、フレちゃん」
 急に名前を呼ばれたのでびっくりした。ばれた?と思ったけど、もちろんそんなことはなく、テレビに向けて言った言葉みたいだった。
 そういえば、アタシがいない間、レイジーレイジーってどうなってるんだっけ。
 ミラーボールラブもどっかで歌うことが決まっていたような気がするし、なんかの雑誌にインタビュー記事載せるってプロデューサーさん、言ってなかったっけ。
 途端に、胸がざわざわするのを感じた。




 女の子が寝てしまったあとで、アタシはそっとベッドを抜け出した。あの歌の通りお風呂の窓が少しだけ開いていて、隙間に体を寄せたら、するりと抜け出すことができた。ナイス、猫の体。
 そうしてひらりひらりと地面に舞い降りて、マンションを後にした。どこに向かったらいいかわからなかったけれど、なんとなく、どこへ行っても正解にたどり着くような気がしていた。だったらあの子とずっと一緒にいてもよかったんじゃないかとも思うけれど、でもそういうことでもなくて。
 直感的に選んだ方へ向けてしばらく歩いていくと、目の前に人影が見えた。
「おかえりフレちゃん」
 シキちゃんだった。満点の星空の下、シキちゃんが立ってひらひらと手を降っていて、まるで妖精みたいだった。見計らったようなタイミング。でも不思議と驚かなかった。シキちゃんはそういう子だった。
 ただいまシキちゃん、と言うと、頭に反して口からはにゃーんという声がもれた。にゃはは、とシキちゃんは嬉しそうだ。シキえもん、また秘密道具使ったでしょ。構わず猫語で続けたけれど、さすがシキちゃん、アタシの言いたいことはちゃんと伝わったようで、ごめんごめん、と全然ごめんと思っていない顔で笑うのだった。そして、帰ろっか、と両手を差し出してくる。少し迷って、でも結局は飛び乗った。
「何かわかった?」
 心地よいリズムで歩きながら、ふとシキちゃんが耳元で囁く。何かって何?アタシが首を傾げても、シキちゃんはにこにこと笑うだけだった。
 何かって何だろう、と考える。例えば猫になる前にあったことだろうか。ううん、と頭をひねると、ネットがエンジョーしたのを思い出した。アタシのことをあまり好きじゃない子が、悪口を書いて、それにファンの子たちが応戦して、ネットニュースの3番目に載るくらいのちょっとした騒ぎになったんだった。見なくていいよ、とプロデューサーさんが言ってくれて、じゃあいっかと思ったけど、やっぱり気になってちょっと覗いたら、「ファンのこと全然考えてない」って一文が見えた。アタシは、はて、と思った。
 346プロのみんなと一緒で楽しくて、プロデューサーとお仕事するの楽しくて、ライブで盛り上がるのが楽しくて。猫になって、アイドルが好きな女の子と過ごして、泣いたり笑ったりしてるのを見るのだって、あったかくて。
 それ以上、何があるんだろう、と思った。
「アタシもそう思うよ」
 シキちゃんは笑った。アタシも笑い返したと思う。猫になったところで、変わったものなんて、簡単に見つからないものだ。




 そのあとのことはあんまりよく覚えていない。気づいたら自分の部屋のベッドに寝ていて、ごはんよー、と一階でママの呼ぶ声が聞こえた。階段を降りて、猫になっててしばらくいなかったけど大丈夫だった?と聞いたら、ママはちょっと首を傾げて、ダイジョブ!とひまわりのような笑顔でピースを作って玄関にパパを見送りに行ってしまった。
 事務所に行っても、誰にも怒られたり心配されたりしなかった。プロデューサーさんとちひろさんといつも通り今日の予定を確認して、トレーナーさんとリハーサルをした。シューコちゃんの持ってきたお菓子を食べて、奏ちゃんと一緒にミカちゃんをからかった。
 夕方のライブは大成功で、アンコールも2曲歌ってしまった。ほっぺたが熱くて、胸がドキドキして、ペンライトの海で目がチカチカする。このまま溶けてなくなっちゃえる、といつも思う。溶けて弾けて、みんなでわーっとなれたなら。
 ふいに懐かしい光を感じた気がして、そっちの方向に思いっきり手を振った。あまりに同じ方向にばかり体を向けるせいで、他のみんなは少し不思議そうな顔をしていた。でも、構わなかった。
「おかえりフレちゃん」
 サイドステージで、シキちゃんがいつか夜空の下で見た笑顔を浮かべたような気がした。アタシはもう少しも迷わず、ただいまシキちゃん、と力いっぱい笑う。