Missing pieces

「あなた家イケブクロの方だったでしょう。今日はもう上りでいいから、ジロちゃん送ったげなさいよ」
潤ママに頼まれる前から、あまりいい印象を持っていなかった。たまに現れてはカウンターを陣取り、ママとひそひそ話をしていく少年。なにが気に食わないのかいつも不機嫌そうな表情を浮かべ、コーラでチョコレートを流し込んでは帰っていく、図体だけはでかい180センチのガキ。
えー!、と大げさに反抗の声を上げてみたが、それは彼も同じだったようだ。いらねーよ別に。顔にしっかり書いてあった。腹が立った。しかし雇い主の命に背くのは憚られ、しぶしぶコートを着る。
「ジロちゃんがかわいいからって、食べちゃだめよ?」
ママがカウンターの向こうからおそろしいことを言った。犯罪者になるつもりはない、口を開こうとしたところで、
「俺にそっちの趣味はないって言っただろ」
一瞬早く、憮然とした声が隣でぼそりとこぼす。咄嗟にわたしは彼の背中を思いっきり叩いていた。
「失礼ね。わたしはれっきとした女よ」
いくらシンジュク二丁目だからって、スタッフ全員がそうというわけではないのよ。
背中を強かに殴打された彼が振り向いて、大きく見開かれた瞳でこちらをみているのを確認して、わたしはなぜか勝ち誇った気持ちになった。一方で彼はいつまでたっても弁明するでもなく、かといって怒るでもなく、ただ驚きを顔に浮かべていた。別の表情も混じっているのが見え、なんだろうと思えばそれは困惑だった。
「そうよねジロちゃん、派手な女は好きじゃないって言ってたもんね」
やけに穏やかなママの声に、顔から血の気が引くのを感じた。



そんなことがあって以来、わたしは二郎という少年が一層苦手になった。
自分がリベラルだという思い込みの綻びや、自分の肉体が女であることの無意識の優越感を、白日の下に晒された。無様に。
「ただの八つ当たりじゃない」
タバコの煙を吐きながら、潤ママは呆れたように言う。実際呆れていた。一方であの日、ママはわたしを解雇することも心の距離を離すこともしなかった。ごめんなさい、と呟いたわたしに、ばかねぇ、と彼女はただ笑った。
年齢というものがなんの力も持っていないことを実感する。矯められていない角の方が真実に近いこともある。与えられず、傷ついた者は強く優しい。結局はどこにどれだけいるかではなく、どう受け止めるかなのだ。



…と。いくら反省したところですぐには変われないのもまた人情というもので、わたしはやはりコーラを啜る二郎の横顔を変わらず遠巻きに睨みつけていた。このところ二郎は毎日店に入り浸っている。なのに前みたいに帰り際送っていけと潤ママに言われることはなくなっていた。何があったのか、どうも店に長いこと寝泊まりしているらしい。
わたしが想像する以上に、二郎は苦労の多い人生を歩んでいるようだ。
しかし今日のわたしに少年を気にしてやる余裕などなかった。つまり、わたしは彼氏に振られた愚痴をママにぶちまけるのに忙しく、涙ながらにすべての経緯とわたしをボロ雑巾のように捨てた男への恨み辛みを余すところなく喚き散らしていた。
「そりゃ当然よ」ママはあっけらかんと言った。
「あなた百年同じメイクしてるし、服も去年のコーデ使い回しでしょう。しかもこんな深夜バイトばっかりしてるから毛穴超開いちゃってるし」
ぐうの音も出なかった。でも、とわたしは力を振り絞る。
「でもママ、人は外見だけじゃないでしょ」
「だから外見で人を判断する男を選んだあなたが悪いって言ってるの」
なけなしの攻撃は、数倍厳しい切り返しでもって木っ端微塵の結末を迎えた。正論とも言う。
わっ、とカウンターに突っ伏したわたしに、ママは「泣くフリする暇があったらまかない食べちゃってね」と無慈悲に言い放った。舌打ちをして立ち上がり、ごはんをよそい、カレーを盛り付け、福神漬とらっきょうを添える。
当然のように皿はふたつあるのだった。そのうちひとつをわたしは二郎の前に置いた。湯気のたつそれをちらりと見ると、二郎はぼそぼそと口を動かし、スプーンを取った。礼を口にしたのだろうが、何も聞こえない。習慣なので、わたしだって別に気にも留めない。
そういえば二郎もまた、わたしに対して態度を変えなかった人間の一人だった。これまで多くの人間がわたしの一挙一動に勝手に絶望し、去っていった。しかし二郎は最初から一貫していた。無言でシンジュクからイケブクロまで移動したあの日から、ずっと同じだった。無関心と言い換えた方がよっぽど適切なのはわかっている。

黙々とスプーンを口に運んでいた二郎がふいに、
「…なんだよ」
居心地の悪そうな声を上げた。わたしに凝視されているのに耐えられなくなったからだ。理由があって見ていたわけではないので、こちらも返事に窮してしまう。
「カレーついてるよ」
その場を取り繕うためだけに、左の口元を指差して言う。二郎は面倒くさそうに手の甲で差された場所を拭った。
手の甲に汚れがついたか確認する二郎をみながら、ふと、この少年がたくさんの苦労を経験して、人間的に一回りも二回りも大きくなって戻ってきて、わたしに愛を囁く様を想像した。我ながらバカバカしいものだった。誰しも構想したことのありそうな筋書きだ。荒んだ女の最後の愛と、無垢な少年の初恋が真実の愛を結ぶ。

しかしもちろん現実でそんな奇跡が起きる気配などなく、
「何にもついてねぇじゃん」
二郎は不満そうな声を上げ、
「あんたほくろついてるのね」
指を自分の口元に持ってきて、私は笑う。