箱庭

葛葉さんという人がいた。女性で、イケブクロの中心からやや離れた住宅街の一軒家に住んでいる。兄貴よりは年上だと思うが、20代なのか30代なのか40代なのかははっきりとしない。はっきりさせる必要性を感じなかったというのが正しいかもしれない。年上の女性なんて、基本的にはそんなものだ。そして俺と関わる年上の女性の大半がそうであるように、葛葉さんは萬屋の常連だった。
三郎は葛葉さんのことを上客だとこっそり言っていた。嫌な弟の言うことに、しかも悪口じみたその物言いに、俺は毎回むっとしていたが、それでも間違ってはいないので何も言い返せない。
例えば、今テレビで放送しているどこそこの人気スイーツを食べたいけど長蛇の列に並ぶ元気がないので買ってきてほしい、とか。
飼い猫のトイレ砂が切れたので買ってきてほしい、とか。
レンタルDVDの返却期限が過ぎていて気まずいので代わりに返してきてほしい、とか。
猫が見せびらかしにきた戦利品の小鳥の死体の処理に大至急来てほしい、とか。
はまっているソシャゲのイベントを走って欲しい、とか。
常連なので例を挙げればきりがないが、大抵がそんなものだった。小鳥を庭に埋めるのはたしかにさみしい気持ちになったけれど、それでも見つかる保証のない犬猫の探索とか、身体能力を要するタイムセールの買い占めやなんかに比べれば、『楽勝』の一言に尽きる。そして支払いを済ませた後は、必ずお菓子や食事が振る舞われた。必ずだ。ワンパターンになりがちな食卓事情を抱える男三兄弟にとって、これほど嬉しいことはなかった。
しかし一番嬉しかったのは、どうせ食べるなら一人よりも大勢の方が楽しいから、とせっせとハンバーグだのカツ丼だのを用意する葛葉さんの言葉に、どんなに目を凝らしても裏が見えなかったことかもしれない。萬屋を始めて随分経った今でも、両親がいないと知って憐憫の色で接してくる人間は一定数存在する。そうであれば自然と距離をとっていただろうが、葛葉さんはそういう慈善団体じみた空気とは無縁だった。




そんな葛葉さんに呼び出され、俺は今日も葛葉さんの家の階段を上っている。今日の依頼は古本の整理で、一人でやると読み耽ってしまって片付けにならないので一緒にやって欲しいという、これまた楽勝の内容だった。
二階の廊下の奥にある葛葉さんの部屋では、床に散らばった本が俺を迎えた。戦いの痕跡ね、と葛葉さんは照れくさそうに笑う。
あくまで本を選ぶのは葛葉さんなので、基本的には俺は椅子に座ったままぼうっと葛葉さんの様子を眺めている。葛葉さんが本を選んで段ボールに入れるのを、そして本を開いて10秒たったら声をかけるのを、ひたすらに繰り返す。本棚は三つあったので、こりゃ眠くなりそうだ、と身構えたけれど、予想よりずっと早く終わった。結局捨てる本が一箱分にしかならなかったからだ。
本の詰まったダンボールを抱えて、葛葉さんの部屋を出る。
「この部屋の本は大丈夫っすか?」
廊下を歩く途中、俺はふと気になって口を開く。階段と葛葉さんの部屋の間にある部屋。記憶にある限りいつも閉ざされている。
ああ、と葛葉さんは目を瞬かせた。
「ここは夫の部屋だから、大丈夫よ」
そして、まるでその部屋をはじめて見る人に説明するように言うのだった。




古本は着払で送れる会社に売るから、と言う葛葉さんに、これくらいそこのブックオフに売ってきますよと譲らず、俺は家を出た。こんなことでお金を貰うのに後ろめたさを覚えたというよりも、早く売ってしまわないと、次来た時にはこの段ボールの中の本たちが何食わぬ顔で本棚に戻っていそうだと思ったからだった。葛葉さんもそんな未来が予想できたのか、段ボールを抱えてスニーカーをつっかける俺に、それ以上何も言わなかった。
そうしてブックオフまでの道を歩きながら、葛葉さんの旦那さんのことを考える。
俺は葛葉さんの旦那さんを見たことがない。センダイの方に単身赴任していると聞いたことがある程度で、それ以上の情報はない。年とか、性格とか、名前とか。つまりほぼ全部だ。
同級生にも親が単身赴任をしているやつらはいる。でもそいつらは受験があるからとか弟や妹がまだ小さくて転校したくないからというのが理由だった。葛葉さんには子供はいない。猫は5匹いるけれど、単身赴任する理由としては薄い気がする。
三郎に言わせると、絶対なにかあるということなのだった。夫は浮気性でよそに別の家庭があって、リコンチョウテイチュウでベッキョしているとか。はたまた、夫はすでに死んでいたり、あるいはあの部屋に幽閉されているかも、とか。
呆れるほど、ぽんぽん出てくるのだった。
「なんのために幽閉するんだよ」
「サスペンスではよくあるだろ?まあ、お前は推理小説どころか活字すら読めないから、わかんないだろうけど」
三郎はけろりとしている。葛葉さんが犯罪者でも知ったこっちゃない、という風なのだ。俺はそれが気にくわなくて思わず(いつも通り)掴みかかりそうになる。
こらっ、と一喝した兄貴も、葛葉さんの旦那さんに会ったことはないと言う。どういう人かも知らないそうだ。仕事と関係ないから別に聞かないそうだ。本当かどうかは知らない。兄貴にはそういうところがあった。俺は兄貴のそういうところを、やっぱりまだ少しドクゼンテキだと思っている。ドクゼンテキという言葉の意味をちゃんとは知らないが、三郎に伝えた時に小馬鹿にした顔をされなかったので、使い方として間違ってはいないのだと思う。
やっぱり、と言えるくらいにはいろいろあったし、まだ少し、と付け加えられるくらいには整理はついたと言える。




家に帰ると、葛葉さんが一階にいなかった。二階に上がると、案の定奥の部屋にいて、少し開いたドアの隙間から声が聞こえていた。電話をしているようだ。内容までは聞き取れないが、真面目な声色からして仕事かもしれない。土曜まで仕事なんて大変だな、なんて思いながらリビングで待つことに決める。階段を降りる前に、ちらりと例の閉ざされた扉を見た。




リビングのソファに座ると、猫が足元に寄ってきて鳴いた。ハチワレのヤマトだ。テレビ横のキャットタワーには茶トラのアスパラとみかんがいて、今は見当たらないがどこかにクロとシロがいる。クロとシロの特徴は言うまでもないだろう。合計きっかり五匹。
ヤマトの頭を撫でていると、少し前に猫のシャンプーをした時のことが思い出された。五匹の猫全員を一度に全部シャンプーするという、珍しく楽勝でない依頼だった。しかも運の悪いことに、その日は兄貴も三郎も別の用事で出払っていた。
何かを察して家中逃げ回る猫を捕まえて、風呂場に引っ張っていき、ふんじばってシャンプーをぬりたくる。シャンプーが終わった後も猫たちはリビングを駆け回り、あちこちをびしょびしょにする。それをまたとっ捕まえて、ドライヤーをかける。
「一気に五匹やらなくてもよかったんじゃないすか」
五匹の猫との格闘を終え、びしょ濡れになった服を着替え、へとへとになってソファに座り込むと、葛葉さんは、えへへと笑った。なにがえへへなのかはわからなかったが、こちらも仕事なのだから文句は言えない。
「予選通過したね」
隣のソファに腰掛けた葛葉さんが、唐突に言う。唐突すぎて、俺はうん、とか、おぉ、みたいなよくわからない返事をしたと思う。
「それで依頼するの控えてたの」
葛葉さんはどこか得意げだ。だから今日五匹いっぺんに頼んだの。そう弁解するように。
「依頼してもよかったのに」
「そう?」
「そうしたら、俺はやらなくて済んだ」
「え、どういうこと?」
「俺、家出してたんだ」
予選の間ずっと。
この話を持ち出したことに、特に理由はなかった。得意そうな葛葉さんの顔を驚かせたかったのかもしれない。
なんで?とか、うそっ、みたいな反応が来ると思っていた。ただ驚かれるか、非難されるか、その両方か。一郎くんをあんまり困らせちゃだめよ、みたいな、すべて見透かしたようでその実なにもわかっていない言葉を想像していた。
けれど予想に反して葛葉さんはしばらく何も言わなかった。
「やるじゃん」
やがてしみじみと、真面目な顔で呟く。驚くのは俺の方だった。
そうか?、と思わず声をあげると、そうよ、と葛葉さんは大きく頷く。
「これは違う、っていう感覚に従えるのはすごいことだと思う」
「これは違う?」
「そう。これは違うって思っても、多くの人にとっては、そのままでいる方が楽だからね」
思わずソファから体を起こして、葛葉さんをまじまじと眺めてしまう。葛葉さんの表情はあくまで穏やかで、感情が読み取れない。
「お腹空いたね」
葛葉さんはあっという間にいつもの口調に戻っていて、いつものようにキッチンにアイスを取りに行ってしまう。




目を開けると、首元まで毛布がかかっているのが視界に入った。ソファで猫を撫でているうちに眠ってしまったらしい。
やってしまった。
真っ先に思ったのは、三郎がいなくてよかった、ということだった。こんなの絶対バカにしくさった顔で見られるに決まっている。
慌てて体を捻ってキッチンの方を見ると、カウンターの向こうで葛葉さんが料理を作っているのが見えた。目が合うと、夕飯食べていくでしょう、と笑う。
「一郎くんと三郎くんに連絡したら、二人も来るって」
底抜けに楽しそうな葛葉さんに向かって、あのさ、とおずおずと切り出すと、もちろん寝ちゃったっていうのは言ってないから安心して、とさらに破顔する。
チャイムが鳴って、兄貴と三郎が家に入って来たのは、それからまもなくだった。
大量の唐揚げをせっせと揚げる葛葉さんに、何か手伝うことはないか聞きにいく兄貴。間髪入れずに三郎がリビングにやってきて、なに寛いでんだよ、と律儀に減らず口を叩く。




唐揚げとグラタンと明太子パスタとデザートのチョコレートケーキですっかり重くなった腹を抱えての帰り道、俺は三郎の肩をちょいちょいとつついた。
「さっきあの部屋開けるチャンスがあったんだけどさ、開けなかったんだ」
兄貴には見えないように、曲がり角でこっそりと耳打ちする。三郎はすぐになんの話かわかったようだった。
「当然だろ」
三郎はぎょっとしていた。
「おまえウチの評判落とす気かよ」
嫌悪感も露わに吐き捨てる。
「ちげぇよ馬鹿、そういうんじゃないって」
反射的に言ったが、何を言いたいのかは自分でもよくわからなかった。
あの部屋には葛葉さんの部屋みたいにたくさんの本棚と机があるのかもしれない。あるいは葛葉さんとはぜんぜん違う趣味のもの、例えばレコードとか釣具とか、があるのかもしれない。蛇とかワニとか奇妙なペットがいるのかもしれないし、大型犬のケージに入れられた男がいるかもしれない。
そもそも何もない、空っぽの部屋なのかもしれない。
俺はあの部屋を、葛葉さんを、得体が知れないと思う。
「シュレディンガーの猫だね」
やがて三郎がわけのわからないことを呟いた。
何言ってんだこいつ。今度は俺が三郎を呆れた顔で見る番だった。