やけにまっすぐと俺を見る女だった。
彼女について考えるとき、一番初めに浮かんでくるのがその表情だった。剣をふりかざし、戦場を騎馬で駆け回るのを生業としているくせに背丈も体格もひょろひょろと頼りなく、肌も透けるように白かった。なのに眼力だけはいっぱしに鋭い輝きを放っていた。
「私はあなたのために戦っているんです」
そんなことを恥ずかしげもなく言ったりもした。俺はそんなセリフを真顔ではける人間がいるのをはじめて知って、感心を通り越して感嘆の域に到達していた。それでも俺が彼女を突き放さなかったのは今考えても矛盾しているが、彼女はなかなかの美人だったのだと言えば立派な弁解になるのではないだろうか。肉づきが悪く、いまひとつ扇情的ではなかったにしても、だ。
苦手と言えば苦手だった。あまりにまっすぐで、ふまじめな俺には眩し過ぎた。自己防衛であったのだと気づいたのはずいぶん後になってからだった。そしてその時にはすでに手遅れだった。
彼女は魔女の疑いをかけられ、誰からも信じてもらえず、最後には磔にされ火にかけられ殺された。
パリにいると、フランスさんを見るのはしょっちゅうだった。セーヌ川の岸を美女と散歩しているフランスさん、シャンゼリゼ通りのカフェでコーヒーを飲むフランスさん、モンマルトルのちょっといかがわしい店に消えていくフランスさん。パリに来てまだそう長いわけではないのに、彼と遭遇した回数は両手に収まらない。まわりもまわりで特に何事もないかのように受け入れているから不思議だった。といっても、見た目はふつうの人間と何ら変わりなかったから受け入れる入れないの問題ではないのかもしれない。
ではこのどこかつっかえる感じは一体なんなのか。
しこりはしまう引き出しを持たないまま腰にぶらさげて歩き続けるしかない。
そんなふうに不信感のぬぐえない人間を彼が暇つぶしでちょっかいをかける相手にと選んだのは、よく考えればおかしな話だった。いくら菊さんが懇意にしている相手であるとはいえ、ただのちっぽけな日本人でしかないのだ。
「今、フランスは日本ブームだからかねぇ」
なんて、人ごとみたいに言うのもまた癪に障った。
「あなたという個人と大衆の境界は、どこにあるんですか」
むっとして言うと、彼は少し驚いたような顔をした。しばしの思案顔のうちに、にっこりと笑って返す。
「葛葉を好きという気持ちに変わりないんだし、いいじゃないの」
はぐらかされたのだと気づいたのは、それからしばらく経ってからのことだった。
よく思い出すのはあの少女のことよりはむしろ、そいつを狂信していた男の方のことが圧倒的に多かった。
ジル・ド・レェ。
彼女があんな死に方をしてしまってから、狂信が文字通り狂気に変わっていくのを、俺は映画でも観るようなひどく冷静な気持ちで見つめていた。見届ける、といった方が正しかったのかもしれない。責任があると思ったのだ。何もできなかったものの、最後のつとめだと。
「なぜ彼女を救ってくださらなかったのです」
短刀をかざし、血の涙を浮かべながら掴みかかってきた男。俺は口を開けなかった。
「あなたにはできたはずだ」
答えを探しているうちに、周囲の者たちに取り押さえられ、あっという間にひきたてられてしまった。そう言うのは言い訳みたいに聞こえから好きじゃない。
でももう少し時間があれば、もう少し何かしてやれたかもしれないな、と、今となっては思う。
たとえば、キスをしてやるとかくらいなら。
マルシェで果物をふんだんに買いこみ、お気に入りのブランジュリーでバゲットを調達し、うきうきとアパルトマンへの帰路を歩いているとき、うっかりフランスさんを見つけてしまった。見つけてしまった、というのは、あまり歓迎されなさそうな状況の時に使う。
フランスさんはいつもと変わりのないような顔をして、それでもどこか決定的に違う雰囲気をまとって、ぼんやりとセーヌ川を眺めていた。身投げする気力すらもなさそうに見える。それでも無言で並んだ私に、Salut、と笑って声をかけるだけの礼儀は持ち合わせていた。
「今日、菊さんがうちに来るんです」
「へえ」
「それで、アップルタルトを焼こうと思って」
「それはいいね。お兄さんも行っていいの?」
「だめだったらいいませんよ」
会話にも覇気がないのである。どうしようかなぁ、と思っていると、すいっと手すりから体を離し、
「ワインはお兄さんに任せてね」
爽やかな笑顔とともに去って行ってしまう。
ベッドに横たわったまま、何日も起き上がらない日が何カ月も続いた。黒い穴のような瞳で天井を見つめ、こちらが声をかけても肩をゆすっても何の反応もない。意味をなさない奇声を発しながら、目につくものすべてを手当たり次第投げ壊していた頃よりもよっぽど痛々しいと思った。
少年たちを標的に、彼が残虐非道の限りをつくし、後世に名を残す悪事を働くようになったのはそれからすぐのことだった。責めることはできない、と思った。お兄さんだって若い男の子大好きだしぃ?と冗談めかせて言うだけの余裕だってその時にはもう顔を見せ始めていた。
そして俺は、俺とあいつとの違いについて考える。
暗闇の中で、携帯電話が着信をつげて光っている。三回目のコールで俺は通話ボタンをおした。「アロー?」
「今どこにいるんです?もう菊さんも来てますよ」
不満そうに日本語なまりの強いフランス語で話す女。こいつは日本人のくせに遠慮ってものを知らない。何も答えない俺に、なおも彼女は不平をもらす。普段から胸の中に何万と貯めている言い訳を、声高らかに披露することだってできた。でも俺の口は違うものを選んだ。
「国に、なんで自我なんかあったと思う?」
「・・・え?」
「老いない、死なない。伴侶を持つこともなければ、子供を産むこともできない。わかちあうものも来世に伝えるものもないのに、なぜ笑ったり泣いたりする必要があると思う?」
唾を飲み込む気配があった。「それはね」
「それはやっぱり、ひとつでも多くの恋を経験するためだと、思うんだよね」
不自然なほどの間があいた。もしもし、きこえてる?そうたずねる前に、「Merde!」ひどい捨て台詞と共に回線は切れた。
不思議と安堵感だけが残った。目を閉じれば眠りは自然と訪れた。
はじめこそ泣きじゃくっていた彼女だったけれど、最期の瞬間は一言だって泣きごとをもらさなかった。汚く罵って、恨み辛みをぶつけてくれた方がどんなによかったか知れない。
炎に包まれ、息も絶え絶えの彼女を見上げながら、俺は言葉どころか涙ひとつぶ出せずにいた。そんなものはすでに干上がってしまっていた。彼女は薄情な俺を群衆の中に見止めると、少しだけ口元を動かし、糸が切れたように絶命してしまった。
何もかもが別の世界の出来事のように感じられた。でも俺は(おそらく)生きていて、それが現実だった。背後で声が聞こえている。醜い男の悲鳴だ。あいつは醜く、俺は美しい。でもそれはこれっぽっちも重要なことではない。守りたいものも守れない。絶望に狂うこともできない。俺はあいつをうらやましいと思う。