L’epilogo

 
 
うちの店によくワインを買いにくる男の子がいる。男の子、と言って差し支えないと思う。彼はわたしより3つ年下で、でもそれはごく最近になって判明した。
「年上か、よくて同い年だと思ってたわ」
彼が纏う雰囲気は大人っぽい、というよりも独創的かつある種の近寄りがたさを醸し出すものだったので、とてもじゃないけど年下の男の子のそれではないと思っていたのだ。素直にそう告げると、そうですか、という返事が返ってきた。そうですか。特別コメントすることなどない、ということなのだろう。
その時わたしは彼がどういう顔をしているのか見てみたいと思ったけれど、頭を持ち上げた瞬間すぐさま瞼にキスが降ってきたのでそれは叶わなかった。
 
 
わたしたちはクローヴとシナモンの効いたホットワインを飲んで、姉弟の様に身を寄せ合い、古いキルトの掛け布団にくるまって眠る。初めてノンノ直伝のホットワインを振る舞った日も、そろそろ彼専用のマグを置こうと思い立ったその日も、わたしは彼の素性をほとんど知らなかった。
わたしが彼について知ることと言えば、フーゴという名前と年の他に、月に1度必ずうちの店にワインを注文に来るということ、その何十倍もの頻度で、つまりほぼ毎日、狭い路地に面したわたしのアパートの呼び鈴を鳴らすということ、その2つだけだった。ある夜、フーゴは普段何をしているの、と訊ねると、彼はあからさまに驚いた表情を作った。今まで知らずにこんなことしてたんですか、と、怒るというよりは驚いて絶句している様子だったので、こんな有名人いたかしら、とわたしは頭の中で最近の映画やテレビ番組をかたっぱしから早送りで回した。やがて、彼はすっかり呆れ顔になっていた。
「もっとこの街のルールに敏感になった方がいいですよ」
彼の意味するところがなんなのか、わたしは結局最後まで自力では解答に辿り着けなかったけれど、それでも弁解させてもらえば、予感のようなものはしていたのだった。
それは例えば、たまに彼が連れを伴ってうちの店に来ると、いつもは従業員に威張り散らしているだんなさんが急にやさしい物腰になって、「代金は頂けません」とにこにこしながら仕入れたばかりの上等のワインやら年代物のスコッチウイスキーやらを差し出す時や、店内のお客さん全員もまただんなさんと同じようににこにこしながら彼らに挨拶をしている時などに感じられたのだった。結局だんなさんの手に捩じ込むようにして代金を払い、群がる人たちの肩を叩きながら去っていく彼らの背中を眺めながら、ここの地主さんなのかしら、とわたしは首を傾げたりなどした。
こういう時、連れの中に混じる彼はかなり他人行儀で、わたしのことをまるで空気みたいに無視した。むっとして名前を呼んでも彼は一向に答えず、代わりに連れの3人が面白そうにわたしと彼を交互に見た。その内1人のニット帽子を被った男の人が、店の外に出るなり彼の肩に腕を回して絡んでいて、彼はものすごく鬱陶しがっていた。実際、どんな聖人でも鬱陶しいと形容するような面倒くさい絡み方だったと思う。ガキですか、あなたは!と彼が喚いたのが聞こえたかと思うと、やがて、ド低脳が!!という怒鳴り声が辺りに響き渡ってニット帽の男の人が吹っ飛んでいったので、わたしは驚いてその放物線を目でなぞってしまった。
「すみませんね、店の前で騒ぎを起こしてしまって」
気づけば同じく彼の連れの1人である金髪の男の人がすぐ隣に立っていて、丁寧に頭を下げた。返答に窮していると、ドォン!と帽子男が石畳に叩きつけられる音を聞いた。続けて、金髪の男の人のすぐ横から、くすくすと笑う少女の声を聞いた。燃えるようなバイオレットの色をしたショートカットの少女だった。いつも彼らにとても大事に護られていて、何よりそれを当然のことと歯牙にもかけないのが印象的な少女だった。どこぞやの映画ではないが、お忍びでいらしたお姫様だろうか、と疑ったこともあったけれど、そういった高貴さとはまた違っていた。庇護者である彼女は、なのにどこか姉のような目で彼らを眺めるのだった。
彼らがこの街を仕切っているギャングで、しかもボスとその幹部たちなのだと知ったのは、それから少し経ってからのことだった。
 
 
ギャングの幹部であると判明した彼は、にも関わらずなんの変哲もないわたしの部屋にいつもやってくる。最早一緒に住んでいるといっても過言ではない頻度で。
「うちは古いし、わたしがフーゴの家に行った方がいいんじゃない?」
間違いなく、うちより豪華で広いでしょうに、と伝えたが、ここが落ち着くので、と言って彼は嫌がりもせず薄暗い道をするすると抜けてやってくる。
ギャングの幹部の家に出入りするのを誰かに見られ、嫁入り前の娘の外聞が悪くなることを心配してくれてるのかとふと思いもしたけれど、すぐさまその可能性は振り払った。他の街でならまだしも、ここネアポリスではそんなことはありえない。少し前まで横行していたドラッグはいつの間にか姿を消し、殺人や強盗、強姦事件は目に見えて減ってきていた。汚職や贈賄の噂の絶えなかった政治家たちは全員どこかへ消えた。代わりにうちの店のワインの発注数が増え、配達先の屋敷、すなわち例の金髪の男の人の居城が人と物で活気を帯びるようになった。この街でギャングを厭う者は誰1人としていない。
しかし一方でギャングの幹部、つまり彼と彼の仲間たちがこの若さでどうやってネアポリスでのし上がるに至ったのか、その過程を知る人も誰1人としていないのだった。街中のあらゆる噂に精通しているうちの店のだんなさんも首を傾げた。
「少し前は別の人がうちにワインの目利きに来てたんだがね」
「別の人?」
「ああ。今は他の街を取り仕切っていると聞いたよ。でも妙なんだ」
「妙?」
「とても心の温かい人だったよ。よそに行くにしても、私達に挨拶もせずにいなくなるような人には思えなかったんだがね。やっぱりギャングともなると、いくらあの人でもその辺は冷たくなっちまうのかねぇ」
だんなさんの声はとても寂しそうだった。
「そういえば、あの人とよく一緒にいた黒髪の男の子も見なくなったな」
しかしよく考えてみれば、一般人のわたしたちがそんな裏の世界のあれこれに精通していたら、それこそおかしな話だ。
 
 
いつか話してくれるかしら、とたまに考えることがある。でも直接フーゴに問いかける気は起こらなかった。それは例えば、彼の纏う独創的な雰囲気のせいしれないし、あるいは彼と彼の仲間たちの間に流れる信頼とも悲しみともとれる不思議な空気のせいかもしれない。わたしはこの街のルールには無頓着だけれど、わたしの好きな人が浮かべている感情の色に対しては敏感な自信があった。
 
 
そして今夜も、フーゴはわたしのアパートの呼び鈴を鳴らす。合鍵を持っているのに、もはや習慣になっているのだった。
わたしはよく、扉の向こうに立っている彼の手を引き、ベッドまで引っ張っていっていきなり押し倒したりした。普通逆でしょう、と顔を真っ赤に染めて抵抗する彼はとてもかわいいと思う。いちご柄のネクタイをひっぱりながら彼のくちびるをふさぐ瞬間ほど幸せなことはない。