太陽が高く上りきった頃に出ていって、次の太陽が上り始めた頃に帰ってくる。そんな日々が続いていて、じりじりと額が焼かれる夏も、反射的にコートの襟を掛け合わせてしまうような冬でも、それは変わらなかった。彼が永遠に年を取らなくなってからは、その習性は明らかに色濃くなった。署内には心配の視線を送る者も、眉を顰める者も、どちらもいることに気づいてはいたが、別段気にする必要性は感じなかった。
その日も例に漏れず夜勤明けで、報告書の提出を終え、薄く靄のかかった頭と張り込みで固まった手足を持て余しながら、薄暗い廊下を歩いていた。とにかく全身が一杯のコーヒーと煙草を欲していた。
喫煙所の隣には自動販売機と古びた固いソファの並ぶ休憩所がある。休憩所の一角に喫煙所が設置されているといった方が正しいかも知れない。ただ自分の場合、目的は常に喫煙の方にあったので、その周辺は喫煙所であり、自動販売機とソファはおまけに過ぎなかった。
角を曲がったところで、先客がいるのがわかった。ソファに腰掛け、缶コーヒーを片手にスマホをいじっている。特に気にしていなかったのだが、近づいてみて、おや、と思った。目が合ったせいというよりも、そいつが警察学校同期の花村葛葉だったからだ。最近の人事通報で、同じ署に異動になったのは知っていたが、顔を合わすのはこれが初めてだった。警察学校時代に特に親しかったわけではない。異動を知って、すぐに挨拶に行かなかったことがその距離感を物語っている。それでも彼女を認識できたのは、職業柄、というよりも、人の顔と名前を覚えるのが生来得意であったからだろう。脊髄反射のように足を止めたが、女の方は同期に興味がないのか忘れているのか、軽く顎で会釈をしただけであった。今にも寝そう、あるいはいかにもまだ眠りから醒めていない、といった様子であった。彼女の制服の襟袖のぱりっとした清潔感から、夜勤明けではなく早番なのだとはすぐに知れた。ということはこの気怠さは、低血圧や寝不足から来るものということか。
肩をすくめ、喫煙所のパーテーションの扉を開ける。ポケットに手を突っ込んだところではじめて、あるべきものがないことに気づいて舌打ちをした。そういえば、車を降りる時に考え事をしていて、助手席に置いた煙草を回収し忘れたような気がする。こうなったらコーヒーだけ買って帰宅がてら車内で一服だ。そう思い直した所でさらに目の前が暗くなる心地がした。財布もまた、同じ運命を辿っていたのだった。
喫煙所を出ると、再び同じ視線が俺を捉えた。眠そうな目はそのまま、しかし不審そうな色を孕んで、一瞬で喫煙所から出てきた俺を眺めている。
この時点で俺の目の前にある選択肢は二択であった。そのまま駐車場に直行し、帰り道のコンビニでコーヒーを仕入れること、あるいは花村に小銭を借りること。どういうわけか、コーヒーを諦めるという選択肢は除外されていた。睡魔と疲労で判断力を鈍らされていたとしかいいようがない。それぞれ違うタイプの面倒を天秤にかけていたところで、口火を切ったのは花村の方であった。
「煙草、切らしちゃったの?」
敬語ではなかった。ということはつまり、彼女の方も俺を同期として認識していたということだ。なんとなく頭が痛くなるのを感じながら、あぁ、とぶっきらぼうに頷くと、彼女は横に置かれたポーチを無言で差し出した。有名な北欧テキスタイルの女性的なそれは、明らかに彼女のものであった。
受け取り、がま口の留め金を開けると、封の開いた煙草が入っていた。自分と同じ銘柄とまではさすがにいかないものの、女性の好む細長い1ミリのメントールとは違う、それなりに吸いごたえのある煙草であった。よくみると使い込まれたジッポーと、内ポケットには折り畳まれた1000円札も何枚か入っている。
「どうしたの?」
怪訝な顔をしていることに気付いたのか、彼女は首を傾げた。
「もしかして、嫌いなやつだった?」
「違う」
「じゃあ、どうぞ?」
「…そうじゃない」
彼女はきょとんとしている。
「女性が煙草を吸うのは感心しねぇ。身体に悪いだろうが」
彼女はさらに不可解なものを見る顔をした。しばらくして、口の端で笑った。次第に意地の悪い表情が広がっていく。
「入間くんって、意外と優しかったのね」
そして声を上げて笑うのだった。
そんな風にして再会を果たした俺達だったが、気づいた頃には一ヶ月に一度ほど飲み屋で顔を突き合わせる仲になっていた。赴任したばかりで知り合いのいない花村が、外で煙草を吸いながら食事を楽しみたい口実に俺を使っているのだとは容易に知れた。俺は仕事が絡まないアルコールに興味が湧かない性質だったが、一服の恩のような、同期の義理のような、かた苦しい感情から足を運んでいるうちに定例化してしまった、という流れだ。
俺がワインを好むので、店はバルやワインバーに限られた。本当はビールケースを椅子にしたような小汚い居酒屋でもつ焼きを頬張りたいのだと、ビール党である彼女はある日語った。俺は聞かなかったふりをした。聞けば彼女は隅田川のさらに東、かの有名な警察官のいる下町の出身であるらしかった。都内の生まれのわりには素朴なのも道理でと頷けた。
一方で意外だったこともある。一緒に飲むようになってわかったのだが、彼女が煙草をとてもきれいに吸うということだった。絵になるとでも言おうか。海外の古い映画のワンシーンのように、彼女はワイングラスを傾けながら、流れるような動作で煙草の煙を吐き出した。そうして2時間ほどアルコールとニコチンを立て続けに摂取すると、決まって軽やかな足取りで自宅に帰っていった。心の機微に敏感では言えなかったが、距離感を保つのにはなぜか長けている、不思議な女だった。
これがもしかして居心地がいいというやつだろうか、と、諦めにも似た感情が胸を渦巻いた頃だったと思う。言の葉党政権掌握のニュースが日本中を駆け巡ったのは。
「権力を手にした気分はどうだ?」
当時の俺には、まだそんな揶揄を投げつけるだけの余裕があった。その日何本目かわからない煙草に火をつけた彼女は鬱陶しそうに肩をすくめた。
「急に言われてもねぇ。フェミニストは滑稽だだの、イクメンなんて単語は叩けだの、なんだのかんだの騒がれていたのが、一転して女性主権よ?頭も体もついていけないわ」
彼女は仏頂面で語った。中王区への入居が決まっている上層部以外、一般的な女性の代表意見は正直こんなものであったと思う。
「戦争を大義名分にしてるけど…結局女がリーダーであっても歴史なんて変わってなかったと思うのよね」
俺は慌てて、おい、と机に身を乗り出した。なによ、と彼女は腕を組んで眉根を寄せる。
「話を振ったのは俺だが、その辺にしとけ。誰が聞いてるかわからんぞ」
「聞かれてたっていいわよ」
「俺がよくねぇんだよ」
反乱分子の汚名を着せられたらたまったものじゃない。彼女は依然不満そうに灰色の煙を吐き出すのだった。
「ちょっとくらい文句言ったっていいじゃない。警察官に女性が少ないからって、急に昇進試験をうけろって圧がすごいのよ」
「いいじゃねぇか」
「…よくないわよ。私が部下もつタイプじゃないって、入間くんだって知ってるでしょ?」
俺は口をつぐんだ。同意の証だった。ほらぁ、と花村がたたみかける。
彼女が言いたいことは痛いほどにわかった。今もこの世界のどこかで戦争が起きていることはわかっている。平和を望まないものなどいない。だが、言の葉党のやり方が解決に繋がっているようにも思えない。
わかっているから落ち着け、という意図を込めて、彼女のグラスにワインを注いだ。ぐいと飲み干すなり、ふと思いついたように彼女は目を瞬かせた。
「でも昇進したら、麻薬取締の人員増加とか、取り組みの強化とか、できるのかしら」
「まぁ、できるだろうな」
「…そっか。じゃあ、がんばってみてもいいかも」
彼女はニコリともせずに言った。大真面目な声色だった。
いつどんな流れで伝えたか忘れてしまったが、俺の麻薬への憎悪とそのいきさつについてはすでに彼女の知るところとなっていた。
生半可な覚悟で言ってんじゃねぇよ。そんなセリフが胸元まで出かかったように思う。しかし代わりに喉をついて出たのは乾いた笑いだった。しょうがねぇなと、言外に伝える吐息だった。
「…期待せずに待っていますよ」
俺は立ち上がって伝票を取った。それを見る女の目に戸惑いの色が過ぎったのを見逃さなかった。昇進せずとも給料は花村の方が高くなっていた。