花村からの呼び出しが途絶えていたことに気づいたのは、あれから3ヶ月ほど経ってからだった。我ながら薄情だと思うが、ちょうどその頃からテロが横行し出し、対応に追われていたと言えば、言い訳になるだろうか。予告通り、彼女は昇進試験を「がんばって」みることにしたようだった。深夜、疲れのにじむ声が電話口でそう語った。叱咤激励の言葉を俺は口にしなかったように思う。ただ片手で煙草に火をつけて、そうか、と気のない返事を返した。
それが直接の原因ではなかったと思うが、以来彼女からの連絡はぱったりと途絶えた。彼女が異動して来た時と同様、彼女の昇格の報せを俺は人事通報で知った。その時にこちらから連絡を取ればよかったのだろうが、なぜかその瞬間の俺には躊躇があった。長い間その正体は掴めなかったが、何ヶ月かしてはたと頭をよぎるものがあった。パズルのピースが合わさった時の感覚と似ている。
『彼女はこの変化をまるで望んでいない』
気づいてみればシンプルなもので、さて、どうしたものかと腕を組んだところで、電話が鳴った。まるで俺が答えを出すのを待っていたかのようなタイミングだった。
指定された場所に到着するなり、俺は地図が指し示す位置と目の前の建物と彼女からのメッセージを何度も何度も交互に確認した。
正装に身をかためたスタッフにコートを預け、案内されたのは、中庭がのぞめる個室であった。豪奢な噴水が印象的で、周りをよく手入れされた生け垣と花々が彩っている。俺が部屋に入った時、彼女はガラス戸の傍に立って中庭を眺めていたが、俺を見るなり顔を輝かせて手をひらひらと振った。最後に会ってから1年以上はゆうに経過していたが、そんな空白を微塵も思わせない笑顔に安心した。安心している自分に気がついた。これまで見たことのない小綺麗なドレスに身を包んでいたとしても、だ。
「…スーツで来いと言うから、何かと思えば」
「入間くんはいつもスーツだから別に言わなくていいかと思ったんだけどね。万が一のことがあるからね」
そうして悪戯っぽく笑う。スタッフが引いた椅子に腰掛けると、彼女はワインリストを手で指し示した。いつも通り選んで、と笑顔で語っている。「シーフードに合うやつね」
「…なんだか密会みたいだな」
スタッフが退室してからぽつりと呟くと、彼女はふふふと笑った。
「まさか本当に?」
「まさか!一度来てみたかっただけよ」
「貴女恋人いないんですか」
「恋人どころか友達もいないの」
笑顔を崩さず、彼女はハンドバッグから見慣れたポーチを取り出した。
「ここ、吸えるのか?」
彼女は煙草を咥えながら、どうぞ?と灰皿を指し示した。半信半疑で自分も煙草を取り出し、火をつけた瞬間、違和感に気がついた。彼女は吸えるとは言わなかった。おそらく本来は吸えない場所なのだろう。
あとになって知ったのだが、そのレストランは政界や財閥の関係者しか使えないところであった。当時彼女がどこまで出世していたのか、今となっては知るよしもないが、少なくとも巡査部長に上がったことを話題にしなくて本当によかったと思った。
居心地の悪さは隠せないまま、しかし料理は次々に運ばれてくる。生雲丹のジュレ。牡丹海老トリュフ添え。鮑のソテー。オマール海老。タラバガニのリゾット。等々。
そうしてデザートのティラミスまで平らげて、俺は思いっきり眉をひそめた。
「で?結局用件はなんだったんですか?」
「用件?」
彼女は首を傾げた。
「私達が会うのに、理由なんてあったかしら。これまで」
珍しく、棘のある物言いだった。
俺が返事に窮したのは言うまでもない。
しかしすぐに彼女はぱっと表情を明るく変化させて、うそうそ、と頭を振る。
「だって考えてもみてよ、一介のお巡りさんだったのがこの1年で急に…よ。肩の力くらい抜きたくなるでしょ?」
「それは…男達にきかれたら、あなたリンチにあいますよ」
「でも入間くんは違うでしょ?」
彼女は事もなげに返す。口をつぐんだ俺を見て、彼女は勝ち誇ったように口の端を吊り上げる。
「警察官になったのなんて、お父さんがお巡りさんで、なんとなくその道を辿っちゃったってだけよ。お父さんみたく交番で一生過ごすつもりだったのに。仕事だし割り切ればいいんだけどね、なんだか慣れなくて」
「最初はそんなものだろう」
「そうね…わたしと似たような女性警官もたくさんいる。でもなんていうのかな、少しずつみんな染まっていくのよね。わたしはそれが怖いのかもしれない」
「…怖い?」
「なーんてね」
舌でも出しそうなふざけた口調で煙に撒くと、彼女は立ち上がる。始まりも唐突なら、終わりも唐突であった。行きましょ、と促す彼女の笑顔からは、会計については有無を言わさない雰囲気があった。財布を出すジェスチャーすら無用と言わんばかりだった。
上質な絨毯の敷かれた廊下を並んで歩く。ふいに、音もなく彼女は俺の腕に両手を絡めてきた。ぎょっとして見下ろすと、悪戯っぽい視線がこちらを捉えた。
「ほんとはね、ここを選んだのは、先輩たちの影響なの。最近こういう遊びが流行っているんだって」
「遊び?」
うん、遊び。彼女は唇を歪め、ここにいない誰かを馬鹿にするように笑う。
視線を散らすと、要所要所に控える従業員たちの視線とかちあった。プロフェッショナルな所作にコーティングされた、蔑みともとれない視線。入館してから意識の片隅で感じていた違和感だ。寒気がして彼女の腕を振り払う。彼女も彼女であっけらかんと笑う。
「悪趣味だよねぇ。何が楽しいんだろうねぇ?」
多分、いや間違いなく、彼女たちが楽しみを見出す本番はこの後だろう。だが指摘する気にはなれず、俺は大きくため息をついた。
「次いつものところに行くぞ。こんなかたっ苦しい店じゃなくて」
「あはは。いいね」
「貴女が行きたいと言っていた小汚い店にも行ってやりますよ」
「え、ほんと?ビールケース椅子行ってくれるの?あ、でももつ鍋も食べたいなぁ」
他愛のない話をしているうちに入り口に着く。嬉しそうに食べたいものを語る彼女の声はしかし、どこか真剣味に欠けた。足は入口から動こうとしない。かと思えば、無言で何かを言いたそうな目でじっとこちらを見上げている。はたと、さっき彼女の言った悪趣味な遊びという言葉が頭を過ぎった。
「…おい、まさかホテルなんか取ったりしてねぇだろうな」
言い終わるか終わらないかのタイミングで、その場をライトが照らした。車寄せにタクシーが入ってきたのだった。スタッフの誘導で車は静かに目の前で停まった。きっかり二台、だ。
「代金はこっち持ちだから遠慮しないで。ところでさっきなにか言った?」
俺は無言で彼女を睨みつけると、そのまま後部座席に乗り込んだ。もちろん、一台目の方だ。
閉じた扉の向こうで彼女が手を振っている。先程と同じ、何か言いたそうな目でこちらを見ているような気がしたが、確かめるよりも先に車は滑り出していた。
思い返せば、予感のようなものはそこかしこにあったのだ。
その後、彼女から連絡が来ることはなかった。今度は迷わずこちらからも連絡をしたが、決して電話が繋がることはなかった。
もしかしたら彼女はもう外で軽々しく食事のできない身分になりつつあるのかもしれない。あるいは、前回会った時にはすでにそうであった可能性だってある。胸騒ぎと、なぜもっと話を聞いてやらなかったのかという後悔だけが残った。
次に彼女を見たのは、Division Rap Battleの中王区のコロシアムでのことだ。勘解由小路の席から、5本の指に入るくらいしか離れていない席に座っていた。胸元にヒプノシスマイクを挿して、中王区の記章をつけて。
言葉を失ったのは、想像以上のスピードで彼女が出世していたことではない。
明らかに目が合ったのに、彼女の瞳は何の色も映さなかった。動揺も笑顔も。そして自嘲すらも。
少しずつみんな染まっていくのよね、という怯えた顔の彼女の言葉を、俺はふいに思い出していた。