Let you go

 
どこか遠い国の古い街並みだった。その風景の中を一人の男が歩いている。ちらほらと見える通行人の間を、何か思いつめたような表情で通り抜けていく。
俺は映写機の光を受けるスクリーンを前に、固い椅子に深々と腰掛けていた。漂う空気は埃っぽく、どことなく地下鉄の空気を想像させる。客入りは俺達以外には老夫婦が一組、といったていで、よく潰れずにいられるもんだ、というのが当初の感想だった。上映中の映画も、過去のセピアカラーのものや海外のものばかりだ。今見ている作品に至ってはタイトルすら覚えがなかった。入館前にポスターを横目で確認したが、もちろん記憶からは即抜け落ちていた。
 
座り心地のよくない椅子の上で足を組みかえ、溜息をつく。とにかく倦怠感がそこら中に蔓延していた。ペットボトルの水を手に取るふりをして、ここに誘った張本人である葛葉の横顔をちらりと盗み見た。葛葉はスクリーンをじっと眺めていた。映画に入り込んでいるようにも、物思いに耽っているようにも見える、そんな横顔だった。
 
いくつか画面が切り替わったところで、既視感がわき起こった。見覚えのある風景だったのだ。そうして、この映画は癖のある役を毎回巧みに演じてみせる俳優が主役をやるというので、最近ちょっと話題になったヒューマンドラマだったことを思い出した。アクションやCGといった若者受けする要素は影も形もなく、原作となる小説やモデルになった人物がいるわけでもない。なのになぜ話題になったかというと、件の俳優がつい先日、若くてして亡くなったからだった。巷ではもっぱら自殺と噂される類のそれだ。
 
なぜこいつが今日という日にこの映画を選んだのか、俺にはますますわからなくなっていた。スクリーンの中で動いている人々は場面を変えて何やら喋り続けていた。全員が全員憂鬱な表情を携えているのだ。塹壕での爆発や銃撃のシーンもあったので、おそらく昔の戦時中の話なのだろうと思う。主人公の男は頭を抱え、苦悩の表情で長台詞を述べている。それを聞いていた女が、わっと泣き伏し、男にすがりつく。
 
なんとなく隣に目を向けると、葛葉は眠っていた。俺は椅子からずり落ちそうになった。頭を叩いてやろうかと思ったが、長いまつ毛に映写機の光が陰影を作っているのを見て、手を引っ込めた。最近忙しかったのだろうと慈悲をかけてやったわけではない。その証拠に、ディナーの代金はこいつに払わせようと俺は固く誓っている。スクリーンの中の物語に戻ろうと思ったのだった。決して興味がわいたわけではなかったが、男の苦痛の表情に、形容しがたい親密さのようなものを覚えていた。
 
 
 
いくらかの時間が流れた。やがて哀愁漂う彼の背中を最後に、スクリーンはスタッフロールに変わった。俺は腕と足を組んで、しばらくエンディング曲に耳を傾けていた。物悲しいが、美しいメロディのピアノ曲だった。
やがて照明が明るくなり、横でもぞもぞと動く気配を感じた。葛葉の気まずそうな目と目が合った。
「寝ちゃった」
申し訳無さそうな声で呟く。映画館が埃っぽく乾燥しているせいか、かすれ声だった。
「俺には我慢ならないモンが2つある。1つ、不味いコーヒー。2つ、映画の途中で寝る馬鹿だ」
「ごめん」
「お前が観たいって言いだしたんだろうが」
「ごめんってば」
「おら、とっとと次行くぞ」
肩を小突くと、しょんぼりと項垂れたまま葛葉は立ち上がる。マフラーを巻きながら、ふと思いついたように、
「最後どうなった?」
おそるおそるといった様子で訊ねてくる。
俺はコートを着ながら少し考えて、
「ハッピーエンドだ」
と告げた。彼女は驚いた顔をした。ポスターの醸し出す雰囲気や煽り文句と正反対であったためだ。
もちろん、嘘だった。
 
救いようのない孤独の話だった。宿命を背負った男が戦地に赴き、全てを失う話だ。男の帰りを待つと誓った婚約者はやがて精神に異常をきたし、崖から身を投げる。
件の俳優の演技も迫真に迫っていた。それは人間が絶望に侵食される恐怖を鮮やかに表現していた。そういえば、と、メディアが俳優を死に追い立てた原因としてこの映画を名指しして騒いでいたのを思い出す。確かにそう言われるだけの要素は感じられた。だが、死に向かいつつある彼であったが故に実現できた演技だったのではないだろうかと思う。
…なぁんて、別に悲劇の評論をしたいわけではない。
戦地に赴くのは葛葉だった。医師国家試験を次席合格で卒業した彼女は、明日から某国の紛争地帯に飛び、医療に携わる。名前も言いたくない主席の野郎も赴任地は違うが同じ進路を選んだそうだ。途中で舵を切った俺は、ご苦労なこって、と、ひとり思う。もし過去に俺の心がもう少し穏やかであったなら、俺はきっと彼らと同じ道を辿っていただろう。そうならなかったのが正しかったのかはまだわからない。医学部から法学部への編入届を出した俺を、葛葉は肯定も否定もしなかったが、俺もまた、彼女の選択に口を挟むことはしなかった。
 
「ハッピーエンドだ」
なおも訝しむ顔を向ける葛葉に向かって同じ言葉を繰り返す。
やがて、
「…そっか」
そう言って笑った。
俺が物語の一部始終を語るのを面倒くさがっていると思われたのかもしれないし、彼女もそこまで映画の結末に興味がなかっただけなのかもしれない。あるいは、俺の意図に気づいたのかもしれない。
どれでもいいと思った。待っていてねと、彼女は言わなかった。