ペイン・レイン(前)

 
※獄兄の設定が創作です。
 
 
その日は朝から季節外れの雨が降っていた。今になって思えば、それすらひとつの伏線だった。
 
兄貴の命日だった。休みを取り、例年通り昼頃に墓地に向かうつもりだったが、朝一で仕事用の携帯が鳴り響き、行く手を阻んだ。部下に任せても良かったのだが、案件が案件だったので迷わず事務所へ向かった。いじめに関することであれば、兄貴も文句は言わないだろうと思ったのだ。
 
そうして夕方、薄暗く沈んだ墓地へ向かった。雨はまだ降り続いていた。物も言わない石柱の中を、傘をさし、靴が泥濘で汚れないよう気をつけながら進む。この空間に生きた人間なんて俺だけだろうと思っていたが、奥に進んだところで人影をみとめた。
女がひとり、墓の前に立っていた。
足を止めたのは決して驚いたからではない。その女のいる場所が、俺の目的地であったからだ。
女の方でもこちらの気配に気づき、振り返った。傘の下からのぞいた顔は、まったく記憶にない顔だった。しかし向こうはこちらを知っているようだった。急に人が現れたことへの反射的な驚きの表情が、すぐに明確な意図をもったそれに変化したからだ。俺は眉をひそめた。女は苦虫を噛み潰したような顔を浮かべていた。
 
「…お久しぶりです」
やがて、消え入るような声が雨音の合間を縫って届いた。それでも心当たりがなく、次の言葉を繋げられずにいる俺を見て、今度は彼女は後悔の顔になった。話しかけなければよかったと、空気が語っていた。誤魔化すように伏し目がちに笑う。
そこで初めて脳裏に過るものがあった。
「もしかして、兄貴の…」
言葉は最後まで音にならなかったが、彼女には伝わったようで、居心地が悪そうに頷いた。十数年前、兄貴の葬式に現れた時の仕草と同じだった。
 
 
 
 
 
 
 
弁解させてもらえば、高校時代の恋人なんて、ふつうは墓参りに来る人間の候補に挙がらないと思う。
しかし現実として、彼女、花村葛葉は、俺と同じように毎年命日に兄貴の墓参りに来ていたのだそうだ。毎年、欠かさず。
言及しなかったが、わざと俺や俺の両親との時間をずらしていたのだろうとは予想がついた。鉢合わせた際のばつの悪そうな表情はそれが原因なのだろうと思った。
 
こんな天気で立ち話も何だから、と俺は彼女を食事に誘った。ほぼ間違いなく断られるだろうと思って口にしたのだったが、彼女は首を縦に振った。むしろ驚いてしまったのは俺の方だった。俺が墓に向かって手を合わせている間、彼女は細かい雨の筋を眺めていた。
誘ったのは今夜元々ひとりで行くつもりだったフレンチレストランで、なんとなく毎年墓参りの日の夜に通っていた。リーズナブルだが手の込んだ南フランス料理を出す、行きつけと言い換えてもいい店だ。タクシーを拾い、車内で予約人数変更の電話を入れ、当たり障りのない会話をしていると、当時の彼女に関する思い出がふつふつと蘇ってくるから、不思議なものだ。
 
葬式に所在なげに姿を現した花村は、末席にいてどこか浮いて見えた。制服の子供が遺族の俺以外には彼女しかいなかったからだ。その時まで俺は、兄貴に友達と呼べる存在のいないことを知らなかった。
清めの食事の席で、オレンジジュースにも菓子の山にも手を付けず、ぼんやりと隅の方に座る彼女の隣に、気づけば俺は立っていた。
 
―あんた、彼女だったんなら、兄貴の自殺を止めることできたんじゃねぇのか。
 
周囲の大人が、ぎょっとした目で俺を見た。俺を咎めるというよりは、自殺という言葉に反応したといった方が正しかった。通夜から今日まで、誰一人、それこそ両親すら、その単語を発することを避けていた。
一方で俺を見上げた花村の目には、なんの感情も浮かんでいないように見えた。深い暗闇を思わせるような瞳で、じっと俺の方を見ていた。
やがて口を開きかけたが、彼女が何かの言葉を紡ぐよりも早く、俺は母親に腕を掴まれていた。廊下に引きずられていく俺を、変わらず彼女は無言で見つめていた。
 
おそらくそれが墓地で俺を視界に入れた瞬間、彼女が嫌そうな顔をした理由のもうひとつであったのだろうと思い至り、顔が熱くなるのを感じた。
今となっては、高校生の恋愛にそんなに強い結びつきがあるわけではないとわかっている。ただ、やりきれない思いの捌け口に彼女を選んでしまったのだ。
 
「塾で同じクラスだったんです」
バケットにレバーパテを塗りながら、花村はそう語った。
他校の生徒だったので、あんなことがあるまで、いじめの存在すら知らなかったそうだ。ある時から塾を休む日が続き、おかしいと思って何度か電話をしたが、一向に応答がない。ある日奇跡のような折返し電話があり、慌てて出たら、女性の声だった。それは俺の母親の声で、涙ながらに彼の死と葬式の日取りと場所を告げたと、そういう顛末だった。
「なんだかんだあって今はスクールカウンセラーをやっています」
「へえ」
「短絡的ですよね」
「なに、俺も似たようなモンだ」
「あら、同業者?」
「まさか。あんたにあんなこという奴が、そんな優しいことできるわけないでしょう」
彼女はくすりと笑い、俺もまた口の端を緩めた。彼女がいじめに加担していたわけでも、いじめを見て見ぬふりをしていたわけでもなかったと知り、俺はすっかり安心していた。
 
とはいえ、実のところ、兄貴に関して、彼女と共有できる話題はほとんどなかったのである。
物静かで、塾の授業の休み時間によく難しい本を読んでいた。当時からすでに古典であったビートルズなんかも聴いていて、お気に入りのCDを貸してくれた。そんな同年代の一般的な男の子と違う雰囲気に惹かれた。あとはよく二人で塾の帰りに歩いたという駅への道や、チェーンのドーナツショップの買い食いの話くらいのもので、彼女が兄貴について語ったのはそれがすべてだった。
 
よくそれだけの思い出で毎年墓参りに来れるものだ。コンフィを口に運び、赤ワインを傾けながら、思う。傍から聞けば呆れるくらいあっさりとしたものだった。H歴以前とは言え、そこまでコンサバでなくてもよかろうと弟の立場からでさえ思ってしまうようなささやかさだった。しかし彼女にとってはとても大切なものであるらしかった。結果として、人生の軌道を大きくずらされてしまう程の大きな禍根なのだった。
相変わらず伏目がちにワインを口元に運ぶ女をみて、ふと、きれいになったな、という思いが頭を過ぎった。再会した当初、彼女を認識できなかったにも関わらず、だ。十年以上経てば一般的な女性は垢抜けるので、決して間違いではないが、もちろんそれとは違う。自分と同様、兄の影を引き連れて生きる女の、その内包する何かに想いを馳せたのだった。
 
 
 
 
 
 
感傷に浸る話題が少なかったのがある意味よかったのかもしれない。気づけば普通に食事と酒と会話を楽しんでいた。当初の緊張を彼女は明らかに解いていたし、その日は俺も俺でどうにもよく口が回った。彼女は口数はそう多くはないがざっくばらんで、つまり俺は彼女のことを少し気に入っていた。お互い無類のウイスキー好きだとわかり、うっかり店を変えてバーにまで行ってしまった。
 
深夜も過ぎ、すっかり酔いが回ってバーを出たところで、はたと我に返った。決して少なくはない女性経験が、頭の中でアラートを鳴らしていた。いくらガキの恋愛だったとはいえ兄貴の生前の恋人と、兄貴の命日になにをしているんだ、と。まったく笑えなかった。
雨は小降りではあるがまだ続いていた。あちこちにできた水溜りに、無数の円を描いている。
 
大通りにでてタクシーを拾い、彼女を押し込んで立ち去ろう。そう決意して傘を開こうとしたところで、花村がするりと横をすり抜ける気配があった。見れば、やつは雨の中を傘もささずに歩き出していた。傘をどこかに忘れてきたのかと思ったが、華奢な柄のそれは彼女の左手にしっかりと握られていた。
迷いのない彼女の足取りに戸惑いながら、俺は彼女を小走りで追いかけた。追いつき、自分の傘を彼女の方に傾けると、彼女はちらりとその黒いキャンバスを見た。
 
「獄さん、ペニーレインって知ってる?」
唐突に彼女が口を開く。
意表をつかれたが、反射的に俺は、馬鹿にしてんのか、と答えていた。愚問であった。
「彼が貸してくれたCDの中で、一番好きな曲だったの。でもわたし、曲名をずっとペインレインだと思ってた」
「…全然発音が違うだろ」
「あは」
「文法的にもおかしい」
「英語が壊滅的にできないのよ。本当に最近までずっと勘違いしていたの」
笑った拍子に、彼女のこめかみを水滴が伝った。
「だってあの歌、優しいけど、悲しげじゃない?だからこういう雨の日はいつも思い出すの」
 
そう言って、彼女は再びするりと軽やかに雨の下に躍り出た。ゆるりと右手を宙に掲げ、水滴を受け止めるようにして路地を歩いていく。
街灯もまばらな通りに、俺と彼女以外の人影はなかった。おかげで通行人に酔っ払いの奇行だと白い目を向けられることもなかった。あるのはただ傘の下に取り残された俺だけで、その歌が故郷の日常を描いた郷愁の歌だと教えてやるべきか、考えあぐねている。
彼女の背を追いながら、ペインレイン、と呟いてみる。意訳するなら、痛みの雨、とでもなるのだろうか。どうしても記憶の中の穏やかな曲調とは結び付かず、違和感なく長年聴き続けてこれた女に対して違和感を覚えた。仮にその通りの曲名だったとしても、どこか楽しそうに自らその雨に濡れる意味もわからなかった。
 
俺は彼女の腕を掴み、ぐいとひっぱった。兄貴の葬式で母親が俺にしたような、子供をたしなめる動作だった。馬鹿なことをするんじゃない、と。
なのに今にも泣き出しそうな、しかしどこか熱っぽい視線とかちあい、息を呑んだ。雨はごく小雨になっていたので、ずぶ濡れでこそないが、それでも彼女の頬には濡れた髪の毛が張り付いていた。