An ice cream truck in your inferno


※MCD時代のお話です。

 
 
 
 
怒号、悲鳴、殴打の音、物の壊れる音。発生する音はすべからくそのどれかにカテゴライズされる、そんな空間に立っている。土足で。
初対面の人間の家に土足で上がり込む日が来るとは、ついぞ予想しなかった未来だ。そんなことを考えていると、おい、と、怒号を発し続けていた男から声がかかった。左馬刻だった。
 
「ぼさっとしてんじゃねぇ。外見張ってろ」
「外?」
「通報されたら厄介だ。誰か来そうになったら声かけろ」
 
安普請の木造ボロアパートは、みるからに近隣で起きていることに無関心そうな住人しかいなさそうだった。見間違いでなければ、ここに来るまでの道すがらも、壊れた窓ガラスや血の染みや嘔吐の痕跡があった。暴力が日常に成り果てた区域とはいえ、そういう可能性もあるのだろうか。
 
合点のいかないまま、ペラペラの玄関扉のドアノブに手をかける。左馬刻が力任せに蹴り飛ばしたせいか、奇妙な回り方の感触がした。施錠機能を失ったこの部屋を哀れに思ったが、それ以前に殴られ続ける家主の行く末の方を案じるべきだろうと思い直し、外に出る。ひときわ大きく上がった悲鳴に蓋をするように扉を閉めたところで、おや、と思った。
 
玄関横、外付けの洗濯機の影に隠れるように、女が座り込んでいた。いわゆる体育座りというやつだ。女がこちらを見上げていたので、自然と見つめ合う形になった。女の瞳にはなんの感情も宿っていないように見えた。
 
簓は少し考えてから、「あんた、ここの人?」と聞いた。我ながら緊張感のない声が出たが,そう、と頷いた女の声もまた、吹けば飛びそうな程あっさりとしているのだった。
 
「悪いな、ちょっと今お取り込み中や」
「そうみたいね」
 
女は肩をすくめた。
これは彼女を左馬刻の前に突き出した方がよいのかもしれない、と考えがよぎらないでもなかったが、簓はとりあえず彼女の隣に腰を下ろした。とにかく肺が一本の煙草を欲していた。
 
「あんたも吸うか?」
 
箱を彼女の方に差し出すと、女は少し警戒心の視線を向けてきたが、それでもすぐ「ありがとう」と言って指で煙草を一本つまんだ。自分の煙草に火をつけた後、彼女にライターを渡してやると、彼女もまた、板についた仕草で煙草に火を灯した。
 
仕立てたばかりの青いスーツ越しの尻にコンクリートの冷たさを感じながら、何呼吸か煙を吐き出す時間が流れた。薄い壁の向こうでは、今も暴力の音が絶え間なく続いている。
 
「逃げへんの?」
 
煙草を差し出した自分も自分だが、隣で一服している女も女だった。ぼうっと虚空を眺めていた女は、うん、とやはり視線を動かさずに言った。
 
「なんで?」
「…なんでだろう。なんか、またか、みたいな」
「初めてとちゃうんや」
「笑っていいよ」
「こんなん笑えへんわ。もうちょい男見る目養った方がええで」
「うん。だから疲れちゃった。色々」
 
色々。簓は繰り返す。
そう、色々。女もまた繰り返す。
そうして鼻から息を漏らした。自嘲の笑みを浮かべたに違いなかった。
 
「おにーさんも疲れてるように見える」
 
煙草を地面でもみ消していると、女はそんなことを言った。簓はすぐさま、そうかぁ?と首を傾げた。
 
「おにーさん、もしかして関西の人?」
「せや。白膠木簓って知っとる?」
「ぬる…?」
「こう見えてもオオサカでは有名なお笑い芸人やってんで」
「へぇ」
 
女の口から漏れたのはただの空気でしかなかったが、予想通りの反応ではあった。ここ東京で簓のことを知るものは誰一人としていない。最早落ち込むというよりも面白さすら感じていた。オオサカの後輩たちが聞いたら間違いなく自虐かとツッコまれるだろう。最初はそうだったかもしれないが、最近では本心から本当にそう思い始めていた。
女も簓と同じように煙草を床でもみ消すと、ふと思いついたようにこちらを見た。
 
「じゃあ、こういうことしてたらやばいんじゃないの?」
 
こういう、の部分で、大真面目な顔をして背後の部屋を指差した彼女の仕草が面白くて、簓は少し笑ってしまった。
 
「そうやなぁ。週刊誌にタレ込んだらちょっとした小遣い稼ぎになるかもしれへんな」
「へぇ」
 
女の声は相変わらず興味のなさを漂わせていたが、一方で視線はまっすぐだった。若干たじろぎながら、もう一本欲しいんか?と誤魔化すように箱を差し出したが、女は頭を横に降った。
 
「もしかして疲れてるの、それも関係してる?」
 
少し驚いた。まだ言うか。驚いたのを気取られたくなくて、煙草を口に咥えた。女が火のついたライターを差し出してくる。いらん、と言ってライターをもぎ取るときに触れた彼女の手は冷たかった。背中がぞわりと震えて、振り払うように紫煙を吐き出す。
 
「んなことより、はよ逃げた方がええ」
「逃げていいの?」
「あんたの自由や」
「なにそれ」
 
女は声を出してふふふと笑った。そのことに何故か救われた心地になりながら、ほら早よ、と促すと女は軽快に立ち上がった。
 
「ありがとう」
 
別に礼を言われることなんてしてへんよ。言い返すよりも早く女は踵を返していた。カンカンカン、と安っぽい金属の音が鳴り響く。その音で、そういえばここは2階やったな、とどうでもいいことを思った。立ち上がって、簓は手すり越しに階下を見た。階段を降りきった女が、アパートの敷地を出ようとしているところだった。声をかけると、女は警戒心なく振り返った。
 
「行くとこあるんか?」
「…ないけど」
「俺ん家来る?」
 
遠い距離で、それでも女が怪訝そうに眉を顰めたのがわかった。
 
「おにーさん、そういうの似合ってないよ」
 
女は少し笑ったようだった。でも揶揄の表情とは違う。意図を確かめたくてもう一度声をかけたが、彼女はもう話す気はないようだった。あっさりと背を向け、もう何の迷いもなく小走りで簓の視界から消えた。
 
後に残ったのは静寂だった。いつのまにか室内の怒号も消えていた。男が気絶したか、こちらの要求を飲む気になったか、どちらかだろう。どちらにせよ、どうか女を追いかける羽目になりませんように、と簓は小さく祈った。
 
耳を澄ませたが、女の足音は聞こえなかった。パトカーのサイレンの気配すらないのだった。それでふいに、左馬刻が自分を外に出したのは見張りのためではなく、彼なりの気遣いだったのだと思い至って、ため息をついた。傷ついたのではない。心外だと思っただけだ。
 
手すりに身をもたせて空を見上げる。大都会イケブクロで見える星は多くない。雲の隙間から月がかろうじて見えるくらいだ。満月とか半月とか、明確な名称を持たない中途半端な形のそれが、じんわりと鈍い光を発している。