徒花2


サイドブレーキが入るのを待たず、乱暴にドアを開けた。運転席の舎弟が驚いた目でこちらを振り返ったのがわかったが、構わず道路に出る。すると店の前に立っていた男が三人、一斉に頭を下げた。
「すんませんカシラ、俺がついていながら」
その中で一際深く頭を下げる男は若頭補佐の男だった。そしてこの店は、奴の女の家族の経営する飲食店だった。
舌打ちをして、男の肩を押しのけて店内に入る。男たちが慌てて後ろに続く気配があった。
(臥龍岡のことが片付いたと思ったら今度はこっちかよ)
認めたくないが、最近どうも厄介事が続いている。



若頭補佐の苦々しい声が電話で報告してきた通り、奥のテーブルに花村組組長代行の女が座っていた。隣と向かいの席は屈強な男が固めている。
歩み寄り、テーブルの足を蹴飛ばすと、サングラス越しにも男たちの目が警戒心で光ったのがわかった。一方で花村は涼しい顔で椅子にふんぞり返ったまま動かない。

「待ちくたびれたわ」
「俺様のシマに来るたぁ、いい度胸じゃねぇか」
「あなた、いつも怒っているのね」
「てめぇに会ったからだ」

俺の言葉に花村はふふと笑った。馬鹿にする仕草と取れなくもなかったが、その程度の挑発に乗っていてはキリがないと切って捨てる。そんな俺を横目に、女はテーブルの上に置かれた煙草を手に取った。すぐさま隣の男が火のついたライターを近づける。

「そんな態度でいいの?」

煙を吐き出しながら、花村はにっこりと笑った。

「あなたも大変ね。直下の組の奴らがドラッグに手を出してたなんて。しかも混ぜモノして上前をはねていたなんてね。ケチくさい」

嫌な予感が当たり、唇を噛んだ。

「よその組のカマキリ女に口出しされる筋合いはねぇな」
「あらそう?臥龍岡ってやつね、ブツの仕入れ先の香港マフィアに花村組から直接引き渡してもよかったのよ?あの人達、自分たちの商品の評判に傷がついたって大層御立腹だったから、恩を売っといた方が花村組としても実入りは良かったわね」

事件について知ったのは銃兎の電話が始まりだった。火貂組内部ではないとはいえ、直下である鎌鼬組が薬物売買に手を出していることで、銃兎からは散々な毒舌を浴びせられた。ケジメはきっちりつけさせると啖呵を切ったものの、次第に香港マフィアが絡んでいることや、黒幕の臥龍岡という若頭の男が行方をくらましていることが明らかになり、怒り狂う香港マフィアからの襲撃が火貂組のシマまで波及する頃には、さすがのオヤジも苛立ちを隠さなくなっていた。
言葉も任侠も通じない香港マフィア相手に鎌鼬組組長の破門だけでは収まりがつかず、すわ戦争か、と誰もが覚悟を決め始めた、ある日のことだった。火貂組の事務所にひとつのスーツケースが届けられた。中に入っていたものは、言うまでもない。

「てめぇが裏で一枚噛んでやがったのか」
「拷問のしがいがあるって、香港マフィアさん喜んでたんじゃない?五体満足で捕まえるの大変だったんだから」

こちらが歯軋りをしているのを見て、花村は露骨に口の端を釣り上げた。

「まさかなんの見返りもないなんてことはないわよね?」

舌打ちをすると、花村はますます愉快そうにするのだった。こちらの顔が苦虫を噛み潰した表情を浮かべるのと反比例して、女の表情は明るく輝く。認めたくないが、それはもはや勝者と敗者の理だった。

「…さっさと要件を言え」

そうねえ、と芝居がかった仕草で花村は足を組みかえる。考える素振りを見せるが、あくまでジェスチャーなのだとはすぐに知れた。その証拠に目はこちらを見つめたまままっすぐ逸らされることがない。背中を汗が伝うのがわかった。そしてこの女はそれを全部わかって、楽しんでいる。虫唾が走った。

やがて女はさっと表情を変えて、 「このお店,評判いいみたいじゃない?一度食べてみたかったの。誰かさんの奢りでね」 笑顔でメニューを指さした。

「…は?」
一瞬、言っている事の意味がわからなかった。「なんだって?」

答えず、花村は灰皿にタバコを押し付ける。言ったままよ、と目と口元が語っている。
「ふざけてんのか?」
「ふざけてわざわざこんな少人数で敵のシマに来ると思う?」

女の表情は終始笑顔を絶やさなかったが、かといって嘘や策略の混じる気配は微塵も感じられなかった。ふと、銃兎や理鶯が俺を駆け引きのできない男だと揶揄したことを思い出していた。認めるつもりはさらさらないが、教訓のように思い出したのだ。しかしいくら目をこらしても女の目に冗談や比喩の色は見つけられなかった。
そこで初めて女の言ったことを咀嚼する。たしかに屈辱的ではあった。しかしシマの一部をよこせだの、何千万用意しろくらいの要求を想定していただけに、それと比べれば痛手は雲泥の差だ。正直拍子抜けだった。
相変わらず椅子にふんぞり返っている女が、こちらをゆったりと眺めている。
無性に腹がたち、舌打ちと共に
「…今日だけだ」
半ば吐き捨てた。

花村は顔を輝かせて、
「ものわかりのいい若頭でよかったわ」
隣の男にメニューを開かせる一方、自分は手元のハンドバッグに手を入れる。赤いネイルに彩られた手で取り出したスマホを耳に当てた。

「あ、宮島?例の店ね、うまくいったから若い者もみーんな連れていらっしゃい。そうそう、来れる奴は全員よ。火貂組の若頭のご厚意で、今日はなんでも好きなもの頼んでいいそうよ。そう、じゃあ後でね」

呆気に取られていると、慌てた様子の若頭補佐が奥の廊下から走って来た。

「カシラ、個室にも大勢います…」
「あぁ?!」

うきうきとメニューを覗き込んでいた花村は、愉快そうな視線をこちらに向ける。罠にかかった獲物をいたぶる目だ。やられた。

「…クソが!」

吐き捨てるが、女は意にも介さない。

「一緒に食べましょうよ」
「カマキリ女と飯なんざまずくて食えるか!」
「あら残念」

少しも残念そうに聞こえないのだった。その証拠に、あっセンマイ刺しも忘れないで、と男たちにしっかりと注文の指示出しをしている。隣に立った店員は、こちらの表情をちらちらと窺いながら、矢継ぎ早に告げられる注文(どれも高級品ばかりだ)を気まずそうに機械に打ち込んでいる。

「…毒でも盛ってやれ」

店員と目が合った瞬間に割と本気で言うと、自分でもわかるくらいの呪詛の声が漏れた。地獄の底から湧き出るような声とでも言おうか。店員はカタギらしく、ひっ、と喉を引き攣らせた。

「あなたはそんなつまらないことしないわ」

意外にも、間に入ったのは花村の静かな一声だった。意外と言ったのは、声に揶揄の色が混じらなかったからだ。見れば、今日初めて見る真剣なまなざしが俺を捉えていた。
それは苛立ちだった。“つまらない”野郎に危うく足を掬われそうになった俺に対しての。

「あなたを倒すのはわたしよ」

俺は舌打ちをして、踵を返した。何かを言わなければいけないような気がしたが、正しい言葉が見つからなかったのだ。礼でも、負け惜しみでもない、別の何か。
つまらないことだと振り払う。事実、家に帰る頃には何を考えたかすら忘れていた。