Callisto

 
 
ぽつぽつと水滴がアスファルトを打つ。黒い染みが視界に入ったのも束の間のこと、たちまち大袈裟な音を立てて雨が降り出した。
あーあ、と駅の出入口でため息を吐く。隣を見ると、同じように肩を落とす人影がちらほら見受けられた。けれど駅から吐き出される人々のほとんどは鞄の中から折りたたみ傘を出してかろやかに去っていったので、天気予報を軽視した罪人というレッテルを貼られた気分になった。
時刻は黄昏時。特に急ぐ用事はないが、さっさと帰って家でごろごろしながらNetflixでも見たい。さてどうしようか、と訳もなく空を見上げたところで、視界をピンク色が覆った。少し紫色を帯びていて、銀色の星屑をうっすらまき散らしたような、どことなく宇宙の惑星を連想させるピンク。
なんだろうと思えば、すぐ傍に男が立っていて、その男が傘を差し出していたのだった。男のくせにピンクの傘とは、すわ三郎かと眉根に力を込めたが、よく見ればまったく見知らぬ男だった。同世代の男だ。人懐こい顔に、きょとんとした表情を浮かべている。
「入ってく?」
そして事もなげに、その高価そうな傘を差し出してくる。
入ってく?
その言葉の意味を考えて、わたしはひどく真剣に悩んだ。時間にすればものの数秒のことだったが、最近で一番頭を使った。そして思う。なんで悩む必要があるんだ。
「遠慮します」
「え、なんで?」
「なんでって、知らない人の傘にいれてもらうなんて、普通しないでしょう」
「そうなの?」
信じられない、と続きそうな語調で言われる。警戒心もあらわなわたしをしばらく観察する目で見てから、彼はふいに右腕を突き出した。
「じゃあ貸すよ」
「じゃあってなんですか。いいです」
「なんで?」
「だってそうしたらそっちが濡れるじゃないですか」
「別にいいよ」
「てゆうか貸すって言われても、そもそも返せないですし、」
「次会った時でいいよ」
「もう会わないでしょう」
「いや会うよ」
今度はこちらがなんでと言う番だった。訝しげな顔をする女を見下ろす彼の瞳には、無邪気な笑いの色が浮かんでいる。
「だから、いいよ」
何がいいのかまったくわからない。なおも動けずにいると、ああ、と唐突に彼は合点がいったかのようににっこりと笑った。
「じゃあ、雨宿りしよっか」
 
 
 
気づけばわたしは和風居酒屋のカウンターに座っていて、気づけばキンキンに冷えた生ビールの中ジョッキを隣の男と鳴らしていた。いかがわしい場所に連れて行かれようものなら、すぐにでも雨の中飛び出そうと固い決意で、駅前のアーケード街を男の半歩後を付いていくこと、五分足らず。スタバとドトールを通り過ぎた所で警戒は頂点に達していたのだが、その次の店ののれんを彼が指差したところで一転、完全に肩の力は抜けていた。彼への興味に、酒飲みの性分が加わって完全降伏、といったところだ。三郎のせいで連れ回されることに免疫ができていたのも、敗因のひとつかもしれない。
何かあったら三郎のせいにしよう。そんな心地で、お通しのそら豆をつまむ。隣の男はカウンター越しに店員と笑い合いながら、料理を何品か注文している。
「ここにはよく来るの?」
いや2回目かな、と彼はジョッキに口を付ける。
「1回兵助と来ただけだよ」
「…久々知君?」
思いもよらない単語に、自分でも滑稽なくらい深刻な声が出た。男は、うん、となんてことないかのように頷くのだった。
「なんでそこで久々知君が出てくるの」
「なんでって言われても」
「友達なの?」
あなたみたいな人が?という言外の意味を込めて言ったつもりだったが、彼は特に頓着もせずに、再び頷く。
「尾浜だよ。聞いてねえの?」
聞いてない、と言うと、彼はまたあっさりと、そっかあ、とぼやいた。そっかあ。その程度ですむことらしい。というか聞いているからと言って初対面であることに変わりはないのでは。
「兵助と最近会ってねえの?」
「…会ってない」
「えー。連絡取らねえの?」
「…取ってない」
「つめてー」
「…そう?」
「あ、でも兵助ガラケーだしな。確かに俺もそんなに連絡取ってないや」
かくいうわたしもつい最近までガラケーだったのだが、クラスやゼミの連絡網もろもろがスマートフォン前提のシステムに切り替わったせいで、しぶしぶiPhoneに変更したのだった。とはいえわたしが連絡を取る相手と言ったらいつものメンバーとバイト先、それに利吉さんくらいのものなので、これといった産業革命と言うか、文明開化のようなものを味わったということもない。そんな中、特に不自由なくガラケーを使い続けられる久々知君はある意味すごいな、と思ったりもする。
そこでふと、小さな違和感に気がついた。
「でも、尾浜君?はわたしのことを久々知君から聞いてるってことよね」
「まあそうだね」
「なんで?」
「この前飲んだから?」
「そりゃまあそうだけど…」
二人がどういう経緯でのれんをくぐるに至ったのか。なぜよりによってわたしなんかのことを話すに至ったのか。そしてどんな風に話していたのか。そして、あの薄暗い駅の中、梅雨にはまだ早い雨に途方に暮れる傘のないわたしを、なぜ目ざとく見つけることができたのか。
考えを巡らせていると、立て続けに料理がカウンターに置かれる音がした。初鰹のたたき。貝のおつくり盛り合わせ。炭火焼きアスパラ。いかにも春の宴といった様相だ。
「次、日本酒行くだろ?」
その声で、うっかり違和感は手放された。差し出された日本酒メニューを受け取るためには、違和感は手放さざるを得なかった、という感じだ。悔しいが、尾浜という男はお酒の飲み方をわかっている。そしておそらく、お酒の席での会話の進め方も。
「うん、うまいっ」
鰹を頬張る男が、嬉しそうにひとりごちる。
 
 
 
尾浜君が帰ろうと言い出したのは、最初に頼んだ料理をすべて平らげ、追加注文した厚切りベーコン炙り焼きと、アジフライと、カニクリームコロッケを食べ終わってすぐのことだった。彼の唐突な振る舞いに慣れつつあったわたしは、淡々と割り勘で会計を済ませて席を立っていた。
「ちょっと俺、走って帰るから、またね」
「何か用事があるの?」
「今日彼女の誕生日だから、ケーキ買って帰らないと」
「…ケーキ?」
あの流れでシメを頼まなかったのはそういう理由か、と納得しつつも、違和感は別の方向へ向かう。
「…彼女?」
「うん、彼女」
事もなげに笑う。彼女の誕生日にすっかり満腹ほろ酔いになって帰ったって、それがなに?、とばかりに。そうして浮かべる笑顔の無邪気なこと。彼ではなく、歪んでいるのは世界の軸の方だと疑わさせられるような何かがそこにはあった。
「じゃ、またね」
そうして尾浜君はのれんを足早にくぐって消えた。
やれやれと、続けてのれんをくぐったところで、お客さん、と後ろから呼び止められた。見れば、頭にタオルを巻いたお兄さんが、ピンク色の傘を掲げてにこやかに笑っている。げっ、と思わず決して上品とはいえない声が漏れた。
慌てて外を確認する。雨はきれいすっかり上がっていた。当然のように尾浜君もきれいさっぱり消え失せて、後ろ姿すら見つからなかった。
 
 
 
***
 
 
 
あれから、無邪気という言葉についてよく考える。邪気がない、悪意がない、純真な。同義語としてたくさんの言葉が出てきたが、どれも尾浜という男を表すには相応しくないように思う。天然とも少し違う気がする。彼を形容するならきっと無邪気なのだろうが、あの得体のしれなさを内包する言葉をわたしはまだ見つけれられないでいる。
「来たよ、傘差し狸」
いつもの、久々知君の家で。
わたしは定位置の座椅子に陣取って、部屋に入ってきた男をじっとりと睨みつける。
「なにそれ」
「雨が降ってる時に、傘の下に人を誘って変なところに連れて行っちゃう狸の妖怪よ」
「えー、ひどいなあ。あの居酒屋、けっこううまかったろ?」
笑いながらチューハイとビールと駄菓子の袋をどさりと床に置く。料理を作っている久々知君は後ろで苦笑いのていだ。
久々知君と尾浜君の二人の間柄については、あのあと、今日の飲み会の段取りを決めるついでに久々知君から電話で聞いた。なんでも二人は幼馴染で、幼稚園の時に尾浜君が親の転勤で海外に行って以来ずっと会っていなかったのが、大学入学を期に帰国したことで、十何年ぶりの再会を果たしたのだそうだ。そして、学期のずれがあったり、半年ふらふらしたおかげで、私達の一年下の学年であるらしい。
聞けば、どうということのない事情だった。得体の知れないということもない。ふーんと、特に感慨もなく相槌を打っていた。目の端にピンク色の傘を映しながら。
「あっ、」
「どうした?」
「傘もってくるの忘れた」
「別にいいよ。また今度で」
次回があることを当然のように疑わないで笑う。そう、と頷きかけて、はたと頭を過ぎった考えがあった。
「まさかあの傘、彼女さんのじゃないでしょうね」
尾浜君は少し驚いたような顔をした後、いやいや、と横に首を振った。
「違うよ、あれは俺のだよ」
「そうだよね。さすがにそこまでじゃないよね」
「まあ、彼女からもらった傘だけどさ」
そこまでだったか、とわたしはため息を吐く。対して尾浜君はなんでわたしがため息を吐いたのかわからない様子だ。いや、理由なんてきっとわかっていて、その上で、どうしてそのような考えにわたしが至るのか理解できない、という方が正しいのかもしれない。
「尾浜君の彼女ができる女ってさ、きっとすごい馬鹿か、すごいいい女かのどっちかな気がする」
とても軽い思いつきだった。風が吹けば飛ばされて、なんでそんなことを考えたのか忘れるくらいの突拍子のない考えだった。その分遠慮のない物言いになった。現に会話の一部始終を聞いていたらしい兵助くんはぎょっとした顔をしている。自覚はあったが、なぜか口をついて出た。曖昧な自問自答にピリオドを打つために、自己防衛反応を起こしたとしか思えない。
尾浜君の方を見ると、彼はきょとんとした表情をしていた。はじめて会った時、あのきらきらとしたピンク色の下で見せた表情と同じだった。
それから、ううん、と芝居がかった動作で少し考えるような素振りを挟むと、
「どっちもかな」
いとおしそうに呟いた。