紅に染まる

 
 真夜中である。奇妙な音と光に寝入りばなを起こされたに違いない、寝ぼけ眼で障子を開けた女は、庭で炎が燃え盛っているのを見て目を瞠った。
炎は意思を持っているかのように一点へ向かって飛んで行ったかと思えば、次の瞬間には身を翻して別の方向へ向かう。ひとつひとつがまったく別の動きをする。うねり、螺旋を描きながら上空へと登る。それは龍神が滝を登っていく様にも似ていた。
やがて、空高く舞い上がったかと思うと、なんの前触れもなく炎はふっと消えた。
その様子を目で追っていた女は縁側ににじり出ると、
「殺しちゃったの?」
消えた炎の向こう側にいた妹紅に話しかけた。妹紅はボロ布で頭をすっぽり覆っていたが、隙間から爛々と輝く赤い瞳で女を見つめた。
「妖怪だもの」
妹紅はしれと答える。そして肩についた埃をはたくと、縁側まで近づいて不躾に女を覗き込んだ。
「驚かないのね」
妹紅は不思議そうに首を傾げる。その様子を見て、女は小さく首を振った。
「驚いてるわ。ここに人間が訪ねてくるなんてずいぶん久しぶりだもの」
すると次に驚くのは妹紅の方だった。ぱちぱちとその白いまつ毛を震わせて幾度かまばたきをすると、
「わたしを人間扱いするやつも久しぶりよ」
バカにしたように笑った。
女はじっと妹紅を見つめていたが、やがてそのボロ布を取り除け、妹紅頭に手を置いた。
「あら、わかるわよ。毎日みてれば妖怪と人間の違いくらい」
 
 
 
 
 
 
 
女は名前を葛葉といった。人里離れた山奥に住んでいて、山のものや薬草をとって里の人に売って生計を立てているという。
ぼろぼろの身なりで真夜中に現れた妹紅を怪しむこともなく、葛葉は妹紅に湯浴みをさせ、寝床を用意した。
昼近くになり妹紅が目を覚ますと、庭には洗濯された妹紅の服がはためいていた。挙げ句、居間には芋粥が用意されていた。
芋を匙で崩しながら、妹紅はにこにこと笑う葛葉をちらと見た。
「ひとりなの?」
「ひとりよ。でも時々親戚が訪ねて来るわ」
「親戚?」
「あれよ」
ちょうど頃合いを見計らっていたかのように庭の茂みがガサガサ音を立てたかと思うと、ひょっこりと顔を覗かせるものがった。狐だった。
呆れたように妹紅がにらみつけると、葛葉は手元を着物の袖で隠してくすくすと笑った。
「わたし、母親が狐なの」
「はあ?」
「本当よ。だからわたしは不思議な力をもってるの。里の人は気味悪がって近づかない」
依然、葛葉は笑っているが、人をからかっているようには見えなかった。
「人の生死がみえるのよ」
葛葉は立ち上がると縁側に置いてあった竹籠からひとつの茸を取り出した。
「この茸、どう思う?」
「…茸は茸でしょう」
「いいえ。これはね、毒茸よ」
「…山に住んでいれば、それくらいはわかるはずだわ」
「そうね、でもわたしはこの茸の向こうに死が見えるの。だから薬草売りができる。そしてあなたには死が見えない。だからあなたは妖怪じゃない」
「大昔は人を死にさそう姫がいたというけれど、あなたもその類?」
「わたしはそこまではできないわ。ただ視えるだけ。なにもできない」
「…なにもしないだけ、じゃなくて?」
葛葉は少しだけ眉をひそめた。しかしすぐにまた人を喰ったような笑みを顔に貼り付けると、毒茸をぽいと竹籠に放った。
「そういうあなたは?昨日の言い方。ね、ただの人間ではないんでしょう」
「蓬莱人よ」
「蓬莱人?」
「こう見えて700年くらい生きてるの」
「へえ…」
妹紅は自分の心臓が鳴ったのを感じていた。至ってなんでもないことのように聞いている彼女に対してではない。なんでもないことのように話す自分に驚いているのだと気づいたからだった。
誤魔化すように粥をすする。薄味のそれは決して美味しいといえるものではなかったが、あたたかさが体の芯に染みていくのがわかった。
囲炉裏に置かれている鍋の蓋をあけ、「おかわり、少しだけどまだあるからね」と葛葉が微笑む。
「そんなかわいい蓬莱人さんが、どうしてこんな辺鄙な所へ?」
「最近妖怪が多いから、退治してあげて恩着せがましくこの家の主から金をせしめようと思ってわざわざ登ってきたのよ」
「あらぁ、それは残念ね。妖怪はわたしに何もしないわ」
「何もしない?なぜ?」
「わたしが妖怪になにもしないからだわ」
「妖怪が怖くないの?」
「なぜ?」
「…無駄な労働をしたわ」
「頼んでないもの」
憮然と言われ、おもわず葛葉を睨みつけたが、ごもっともだ。ぐうの音もでない。
代わりに芋粥を喉に流し込み、縁の欠けた椀を葛葉に突き出した。報酬でなくとも、利益を得ることはできると言わんばかりに。
「しばらく泊めなさいよ」
「こんなあばら家でよければご自由に」
なんだかんだ憎まれ口を叩いているが、葛葉は明らかにうきうきと鍋に残った粥を茶碗によそった。
「人と暮らすのは、生まれて初めてだわ」
 
 
 
 
 
 
 
そうして妹紅が居候となり、縁側での日向ぼっこ以外なにもしないと決め込んでから一週間ほど経った頃だった。
ふいに妙な瘴気を感じ、妹紅は山を降りた。山の麓、ちょうど集落に入ってすぐのところで、人間が奇妙な死に方をしていた。それは形容が憚られるような死に方だった。誰もこんなふうに死にたくはないと思うような死に方とでも言おうか。すぐ傍で家族と思しき女と子供がさめざめと泣いており、その肩を別の村民が支えていた。彼らが気づいているかは知らないが、わかるものにはわかる。それは明らかに妖怪の所業といえるものだった。
村民に見つからないようそっとその場を離れ、葛葉のぼろ家に帰ると、珍しく来客があった。縁側に腰掛け、なにやら葛葉とひそひそと話をしている。葛葉は一度部屋に引っ込むと、手になにかを持って戻ってきた。薬包であった。それを懐にしまった来客は、銭を縁側に置くなり逃げるように山を降りていった。
「何を話してたの?」
「お母さまの具合が悪いそうよ。それで、お薬を渡したの」
葛葉はしれと言う。とてもそんなふうには見えなかったが、と追求しようとしたが、葛葉も妹紅の考えがわかったのだろう、すぐに里の様子はどうだったの、と笑いかける。
ため息をつき、見てきたありのままを妹紅は語った。すると葛葉は少し驚き、いやぁね、と呟いた。そして縁側に置かれていた包を膝に置いて開く。銭と一緒に先程の来客が置いていったもののようで、みたらし団子が2本、行儀よく並んでいた。
「妹紅も食べましょ」
つまり、話はそれでおしまいと言うことだった。いやぁね、と、確かにその一言に尽きるといえば、それまでだが。自分の住む山の麓で惨殺死体が見つかったからといって、彼女にはなんの恐怖も関心も沸き起こらないらしい。
諦めて妹紅は彼女の隣に腰掛け、被っていた布をとった。葛葉に洗われ、丁寧に繕われた布だ。ばさりと肩に落ちた髪を見て、葛葉は嬉しそうに目を細めた。
「本当に綺麗な髪ね」
「よしてよ」
「本当よ。とっても綺麗な髪なのに、みんなに見せられないなんてもったいないわ。隠せずいられる場所があればいいのに」
「あるわけないわ。こんな子供がこんな白髪、どこいったって気味悪がられるだけよ」
妹紅はひょい、とみたらし団子の串を手に取ると、その蜜のかかった白色にかぶりついた。一方で葛葉は妹紅の髪を一房手にとり、その一房を太陽に透かして見たりなどする。うっとおしいという意思表示でもって手で振り払うと、葛葉はくすりと笑った。
「そういえば、聞いたことがあるわ。幻想郷というところ」
「幻想郷?あぁ、極楽浄土みたいなとこでしょう。人が死んだら行くという」
「いいえ違うわ」
葛葉の声は毅然としていて、思わず妹紅は団子の最後のひとつを頬張ったまま、まじまじと彼女の目を覗き込んだ。
「幻想郷は、この世から失われたものや忘れ去られたものが行き着くところよ。そこでは人間も妖怪も神もみな入り交じって暮らしているというわ」
おとぎ話のような内容だった。なのに葛葉の声は確信に満ちて響いた。
団子を咀嚼し、飲み込み、口の端にこびりついた蜜を指で拭うまでの沈黙が流れた。
「…誰からきいたのよ」
「誰だったかしら」
思案顔の葛葉はそれでもすっと団子の串をとった。妹紅が狙っていたのに気づいていたのかもしれない。妹紅が舌打ちしたのを横目に、彼女は団子をはむ。
「そこに一緒に行けたらいいのにね」
3つの団子を残したままの串を妹紅の方に差し出しながら、葛葉は小さく笑った。
 
 
 
 
 
 
 
ある日、薬草を売りに山を降りた葛葉が、背負った籠の中身もそのままに戻ってきた。丁寧に額にはこぶと血の跡が残っている。いつも通り縁側で寝そべっていた妹紅も、これには流石に飛び起きた。
「なにがあった?」
「妖怪が里を襲っているらしいの。それを私が仕向けたと思われてるようよ」
しこたま石と砂を投げられたわ、と、当の葛葉はけろりとしたものだ。
「濡れ衣だ!」
「当たらずとも遠からじ、ね。1人の死はわたしが関与しているから」
「…は?」
思い当たる節ならすぐに浮かんだ。
「殺したい人がいると相談されたの」
「なんでそんなことを…」
「困っているみたいだったから」
彼女の声色には人の命を奪ったことへの後悔など一筋も滲んでいない。妹紅は背筋に悪寒が走るのを感じた。
「妹紅はここから離れた方がいいわ」
珍しく人をバカにした笑みを浮かべていない葛葉が、籠を地面にどさりとおいて天を仰いだ。彼女の視線をなぞるように天に目をやり、そこではたと気づく。
「わたしだな?わたしがあの日、妖怪を殺したから、山の妖怪たちが復讐を」
葛葉は笑った。正解だ、と思い至るよりも先に妹紅は葛葉の手首を取っている。
「一緒に逃げよう」
「どこへ?」
彼女は首を傾げる。ぐいとひっぱると、彼女はすんなりと妹紅の腕の中におさまった。妹紅よりかなり上背のある彼女だったので、振り払おうと思えばすぐにできたはずだ。つまり、もとより抵抗するつもりなどなく、純粋に浮かんだ疑問だったということだ。どこへ逃げられるというの?と。
「わたし、葛葉のことが好きよ。だから一緒に来て」
声を絞り出す妹紅を見て、葛葉は諦めたように頷いた。
 
 
 
 
 
 
 
いくつ山を超えたかわからない。月明かりの中を手を取って進んだ。時折川辺で喉を潤す以外は無言で、ひたすら目的地もないまま足を進め続ける。
人里を避けると必然的に森の中を行くこととなる。木の枝が足や腕をかすめる度に傷がうまれ、うまれたはしから癒えていく。しかし葛葉は人間なので、傷ができるたびに眉をひそめ、しかし声を殺して妹紅が手を引くまま、足を前へ前へと突き動かす。
やがて、違和感に気づいて妹紅は足を止めた。いつからだろう、虫や獣の声がきこえないのだった。はたと夜空を見上げるも、そこにはさっきまで確かに草木を照らしていた月も、それどころか星ひとつ瞬いていない。
「…もうだめ。ひどく怒っているわ」
葛葉の手がぎょっとするほど冷たくなっている。振り返ると、出会ってからはじめて彼女は怯えた表情を浮かべていた。妹紅は唇を噛んだ。大丈夫だよ、という言葉は間違っても投げられそうにない。
やがて、す、と葛葉の手が離れた。そうされてはじめて、自分の手が震えて力を失っていたことに気づく。再び握ろうと手をのばすも、彼女はやんわりと頭を振った。
「…なんで」
「わかるわ。私が戻らないと、このまま2人とも永遠に闇の中をさまよい続けることになる」
「だめだ!」
妹紅は地面を蹴り、葛葉を羽交い締めにしようと飛び込んだが、手は虚しく宙をきった。もはや妹紅の作り出した松明をもってしても、葛葉の輪郭は薄く闇にとけようとしている。
「さいごに聞きたいことがあるの。あなたに死が見えないといったけど、あなたでないものの死がまとわり付いてるのが見えるわ。誰?」
「…は?」
頭が朦朧としている。葛葉の言葉は突拍子もなかったが、何を指しているのかは痛いくらいにすぐわかった。どろりと、血に塗れた手が肩に乗せられた感覚すらあった。
「…誰というほどの奴じゃない。わたしの命を救ってくれた。でもわたしは彼を殺した」
「後悔してる?」
「…」
「ごめんなさい、わからなくていいわ」
葛葉の生白い腕がすっとこちらに伸びたかと思うと、ふわりと頰を撫でた。別れを惜しんでくれたのかと思ったが、間違っていた証拠に肩のあたりで何かを掴むような仕草をした。そして、あっさりと離れていく。
「…葛葉
「この死はわたしが引き受けるわ。大丈夫、このくらいなら造作もないことよ」
葛葉、と彼女の名前を呼んだ声は、しかし声にならなかった。
ー早く行って。
もはや人の形をとらなくなった女が、耳元で囁く。
妹紅は背後から突き飛ばされたように、その場から駆け出していた。
 
 
 
 
 
 
 
そして再び、妹紅は暗闇の中を歩いている。
子供の時によくよじ登った、父の膝。庭の梅。最後まで好きになれなかった和歌、琴。日に日に恋に狂ってく父親。藤原家の醜聞、屈辱。あのいけすかない月の姫への復讐。そして、山奥に暮らす狐の娘。
いろいろな光景が走馬灯のように流れては消えていく。
いつも誰かに救われた。世界はいつも優しかったように思う。振り払い、選んだのは自分だ。
ふいに、暗闇の中を抜けた。やわらかい橙色が遠くの湖の向こうに射している。ごく出始めの朝日にわずかに照らされ、民家がぼうやりと浮かび上がっている。頂上に鳥居を構える山も見えた。湖の底のような透明感のある藍色に染まる風景が眼下に広がっていた。
幻想郷だ、と妹紅は思った。自分は名実ともに現世から失われたのだ。その意味に気づいて妹紅は笑った。葛葉が死んだ。それは確信だった。どういうわけか、出会って日の浅いの彼女が自分のことを忘れてしまったのだとは思いもつかなかった。そう思いたくなかっただけなのかもしれない。矛盾しているが、どこかで生きていてくれたらいいな、とも思った。どこかで自分のことをきれいさっぱり忘れて、またあの山奥でひっそりと暮らしていてくれたら。そうしたら自分はよくわからないしがらみから、やっと自由になれるのかも知れない。
くだらない思いつきだった。たまらず、声を上げて笑った。笑いすぎて涙が出た。死ねないことを知って以来、700年ぶりの涙だった。