DMZ(前編)

※現代大学生パロ。oldに入っている現代パロシリーズと同じ設定です。
名前しか出てこないヒロインは五年生と同じ学年で、仙蔵の異父妹で、きり丸のバイト仲間。

 
 
 
 
夕食を終え、皿洗いをしている最中に、玄関のブザーが鳴った。
長次は少しだけ考えるように玄関の方向を見つめていたが、やがて蛇口を閉め、手をタオルで丁寧に拭いてから玄関へ向かった。時折ぎしりと音を鳴らす廊下を歩き、立て付けの悪い引き戸を絶妙な角度へ絶妙な力を込めて引くと、そこに立っていたのはきり丸だった。
すりガラスの向こうにぼうやりと透ける影の形から予想はついていたが、長次が驚いたのは(といっても表情には一切表れなかったが)、きり丸が敷居を跨ぐよりも先に、しばらく泊めてください、とむくれ面で頭を下げたからだった。
長次は何も言わずにきり丸を家に上げると、湯を沸かしながら皿洗いを片付け、沸いた湯でほうじ茶を煎れ、戸棚から煎餅を出した。その間ずっとちゃぶ台の一点を睨みつけていたきり丸だったが、茶を啜る長次をちらと見ると、
「土井先生と喧嘩したんです」
と気まずそうに語った。大学進学のことでもめて、家を飛び出してきたのだと。
ふむ、と長次は煎餅を手で割った。
土井先生というのはきり丸の保護者だ。保護者、と形容されるのは、彼らが親子ではないからだった。そのことをきり丸は公言していたが、どういう関係性なのか、なぜ共に暮らすに至ったかについては、いつも言葉を濁していた。
例えば、以前尋ねたときには、きり丸は土井先生の遠い親戚で、両親が死去したあと親戚の間をたらいまわしにされた挙げ句、最後の最後に引き受けてくれたのが若き土井先生だったのだ、とか、土井先生が中学生の時に付き合っていた年上の彼女が、久しぶりに訪ねてきたと思ったら生まれたばかりの乳児をおしつけて姿をくらました、とか、土井先生の離婚した両親の片方が産んだ年の離れた弟だ、とか。とにかく毎回答えが違っていた。毎回のあまりの流暢さに、そのどれも正しくないのだということだけが浮き彫りになって響いた。
彼らの特殊性を述べたいわけではない。何が言いたいかというと、おそらく自分と同じ年頃、あるいはそれよりも若くして、ちいさな子供を引き取ろうと決意できるだけの優しさと責任感を兼ね備えた土井先生が、進路ごときで諍いを起こすとは考えられないということだった。
長次は何も言わなかったが、長次が嘘に気づいていることに、きり丸も気づいているようだった。それが故の気まずさなのだとはすぐに知れた。

結局手つかずのままの湯呑を片付け、風呂にきり丸を促すと、長次は携帯電話を手にとった。必ず高校には行くこと、そしてここにいることを今日中に土井先生に知らせること。その2つを条件に滞在を許可したのだが、きり丸は自分から連絡することは拒んだのだった。
コール音が鳴る間もなく、土井先生はすぐに出た。電話の前でずっと頭を抱えていたのだろう彼の姿が容易に思い浮び、心が痛んだ。自己紹介もそこそこに、きり丸の無事と今後の滞在の話をすると、土井先生は電話の向こう側で長い溜息を漏らした。安堵のようにも、苦痛のようにも聞こえるその溜息のあと、まず土井先生は丁寧に礼を述べた。
「ご迷惑をおかけして申し訳ないが、ご好意に甘えさせてもらってもいいでしょうか」
「迷惑ではありません。事情は知りませんが、傍から見ていてきり丸は少し頭を冷やした方がいいように見えます」
「頼りない保護者で、申し訳ない」
「…それは違います」
「いえ、いつもわたしはあいつを悩ませているんです」
最後の口調は、明らかに自嘲であり、自責だった。支えが必要なのは土井先生も同じなのではと不安が過ぎったが、
「…時間が必要なだけだと思います」
そうして念の為にこちらの住所と連絡先を伝え、長次は電話を切った。自分が彼のために何かできるとしたら、きり丸を無事に彼のもとに帰すことだけだった。
通話を切る直前、ふと、土井先生にきり丸との関係性を確かめたい気持ちがもたげたが、すぐに振り払った。詮索は邪念だと自制したからではない。
土井先生なら嘘をつかないだろう。そのことがなぜか無性に怖かったのだった。
 
 
 
一般的に古民家と称される長次の家は、もともとは祖父母のものだった。数年前に祖父母が逝去し、両親が相続したものの、転勤が決まって住むあてがなかったこと、そして人に貸すには古すぎたことから、土地ごと売ろうかと考えていた。そんな折に運良く長次が近くの大学へ進学することが決まり、売却を免れたのだった。リフォームする費用が十分でなかったので、修繕も最低限に移り住んだが、別段困ったことはなかった。それよりも広さと部屋の多さがありがたかった。長次は芸大で日本画を専攻していたので、学生ながらも自分のアトリエを持った心地だった。
檸檬の木の生える庭も、長次のお気に入りの場所だった。記憶にある祖父母の家への帰省の思い出は、いつもこのしなやかに伸びた檸檬の木から始まる。大きく空へ向かって枝を伸ばす檸檬の木は、どことなくこの家の主であるかのような存在感を放っていた。冬になると祖母が収穫した実で拵えてくれた、あたたかいはちみつ檸檬も、昨日のことのように鮮明に覚えている。
とはいえ今は梅雨時なので、檸檬は青々とした葉を茂らすばかりだった。その代わりに根本の方にはタチアオイが咲きはじめていた。すぐそばには雑穀を敷いた餌箱を置いてあるので、雀や鳩、たまに名前不明の鳥も訪れた。野良猫が根本で鳴くこともあった。
平穏を絵にしたような、休日の庭といった風景だった。昼食後、皿洗いを買って出たきり丸の流す水音をBGMにぼんやりと庭を眺めていると、ふいに黒い人影が視界の隅を横切った。すわ不審者かと身構えたが、よく見ると旧友で、どういうわけか憤懣やる方ないといった表情を浮かべていた。
「…仙蔵?」
驚いて縁側に出ると、仙蔵はむすっとしながらも、久しぶりだな、と言った。
「帰国していたのか」
「少し前にな。それよりなんだ、この家は。さっきからずっと呼び鈴を鳴らしているのに、なぜ出てこない」
「…さっきから?」
もちろん、さっきから聞こえていたのは皿洗いの音だけだ。
電池切れか、あるいはついに壊れたか。週明けにすっかり顔馴染みになってしまった工務店に電話をしなければ、と考えてながら玄関を開けてやると、仙蔵の隣には大きなスーツケースが佇んでいた。確認するまでもなく、仙蔵もまた、しばらく居候しに来たに違いないのだった。
居間に入るなり、仙蔵は訝しげに眉をひそめた。そしてすぐに、台所に立つきり丸を明らかに面白がる目でじろじろと不躾に見た。
「長次。お前は昔から迷い犬だの野良猫だのしょっちゅう拾ってきていたな。今度は人間の子供まで拾うのか」
きり丸はむっとした表情で水道の蛇口を閉めた。そうしなければ、水を仙蔵にかけてしまいそうだとでも言うかのように、大げさな動作だった。
「橋の下ででも拾われたか?」
「…違うよ、コインロッカーに捨てられてたんだ」
ぼそりと呟き、居間へと逃げていく。その背中をみながら、仙蔵は興が削がれたとでも言うかのようにふんと鼻を鳴らした。
「甲斐性があるのも考えものだな」

いかにも甲斐性のなさそうな男をスーツケースごと空いている部屋のひとつに追いやると、長次は居間に降りて、きり丸に頭を下げた。友人の非礼と、今夜から仙蔵と部屋を共にしてもらわなければならないことへの詫びだった。嫌ならもちろん自分の部屋か、あるいは居間を使ってもらって構わない、とも添えた。しかしきり丸は首を振った。
「ここは中在家先輩の家っすから」
不機嫌さこそ隠そうとしないものの、年不相応のその聞き分けの良さは、どこかいびつさを感じずにはいられなかった。いっそ奇妙だ、とでも言えそうなくらいだ。それは長次を不安にさせた。
「あいつ、誰なんすか」
初対面で侮辱してきた奴に礼儀は不要と考えたのだろう。すでにあいつ呼びである。しかし長次の方も特に訂正する必要も覚えず、仙蔵が高校からの友人であること、芸大に通うピアニストの卵で、現在パリに留学中であること、おそらく夏季休暇で一時帰国しているに違いないことを手短に伝えた。
「…パリ」
きり丸は驚いているようだった。賞賛ではない。なんであんないけすかない奴が?と言外に語っていた。しかしよく考えれば、彼をいけすかない奴たらしめているその溢れ出る自信は、そもそもその実力に基づいたものであるのだった。
ちょうど荷解きを終えたらしい仙蔵が姿を現したので、
「あんたピアニストの卵ならそこにあるピアノ弾いてみろよ」
きり丸が仕返しのように言う。この家は古いので客間なんていうものがあり、何代前が使っていたのかもわからないがそれなりに高価だったに違いない立派なピアノが、ひっそりと鎮座していた。仙蔵は口の端に嘲笑を浮かべながら、ずいときり丸に詰め寄った。
「仮に弾いたとして、お前にその違いがわかるのか?」
ぐぅ、と言葉に詰まったきり丸を尻目に、仙蔵は勝ち誇ったように畳に腰を下ろす。
「とはいえ、あんな調律もしていないピアノが弾けるわけもないがな」
「え、嘘だ」
「は?」
葛葉ちゃんは弾いてたよな、中在家先輩」
「…は?」
とっさに長次を睨みつけた仙蔵の目には、疑念と抗議の色がありありと浮かんでいた。それは「自分と葛葉の間柄について話したのか?」とも、「なんでこのガキが葛葉のことを知っている?」とも、「葛葉がお前の家に来ているのか?」ともとれたし、そのすべてを矢継早に喚いているかのようにも見えた。対して、長次はゆっくりと頭を振った。彼らのプライバシーに触れる部分は話していないし、その他のことについても別段問題もないだろう、という意思表示だった。
「久しぶりにしてはよく弾けた、と言っていたな」
「…嘘だ」
「本当だぞ、なかなか上手だった」
仙蔵にしては珍しく、思いつめたような顔で立ち上がると、客間へ向かった。ガタンバタンと大きな音がしたかと思うと(そういえばピアノの上には画材を重ねていたかもしれない)、鍵盤をひとつ奏でる音が聞こえた。長次に音感はなかったので自信はないが、それはラの音であったように思う。
「やはり狂っているぞ」
すぐさま居間に戻ってきた仙蔵は不可解な顔をしていた。きり丸の方は別に彼の弾くピアノに興味があったわけでもないのだろう。そのまま話題は流れ、気づけば3人して長次の煎れた緑茶をすすり、戸棚に入っていたかりんとうをぼりぼりとつまんでいた。そういえばこの来客は美食の都からやってきたというのに、土産のひとつも出す素振りがない。
長次は無言を居心地が悪いと感じない性質であったし、きり丸は金が絡まなければいけ好かない人間と積極的に絡む方ではない。仙蔵はぎこちなさを意にも介さない、というよりは楽しんでいるきらいがあった。これは、もしかして、いやもしかしなくても、俗に言うお通夜のような気まずさと言うものなのでは。そう考えたところで、きり丸が立ち上がった。
「俺、バイト行ってくる」
きり丸は夕刊配達のバイトをしているのだった。出ていくには少し早いが、出ていくのを止める筋合いもない。玄関まで見送ろうと長次も立ち上がると、ふっと仙蔵が笑った。
「子供というのは難儀だな」
長次は首を傾げた。
「…お前のことか?」
仙蔵が思い切り嫌そうな顔をするのと同時に、きり丸が満足そうににやりとしたのを気配で感じた。本当に難儀な奴らだなと思った。だが不思議と面倒だとは1ミリも思わなかった。かといって彼らの助けになってやらねばと思ったかというと、それも少し違っていた。
例えば、雨に濡れた生き物が駆け込んできて、毛繕いをしたり、羽根を休めたりするのを、静かに見守る庭の檸檬の木。その心境に似ている。