There came a ghost

 
仕事が終わらない、と女は電話口で嘆いた。
着信をスピーカーモードに変えて机の上に置いてパソコンに向き直ると、抗議の声がスマホからあがった。「キーボードの音が聞こえるんですが」
深夜1時過ぎである。なぜこんな時間に電話をかけてくるんだと叱責したとしても、こいつに常識的思考を求めるのは徒労だった。数年前から指摘するのはやめていた。
修習生としてはじめに所属した法律事務所の同期だった。俺が事務所を異動し、独立してからもずっと同じ事務所に勤め続けている。顧問をしている企業からの急な案件だかクライアントの依頼による証拠集めだかなんだかで、こんな時間までパソコンに向かっているらしい。
かくいう俺もまた、大きな裁判を控えていて、このところ自宅にまで仕事を持ち帰る日々が続いていた。つい着信に応じてしまったのもそのせいだ。
「どうせまたつまらん仕事にやられてんだろ」
「依頼人からの大事な案件よ」
「お前の事務所の案件は大体予想がつく。それでうんざりして電話してきたんだろ」
「・・・」
「だからさっさと転職しろっつったんだよ」
「気分転換に電話してるのに、まーたそういうひどいことを言って」
「深夜の気分転換に人を巻き込んでるやつに言われたくねぇよ」
「なるほど。うーん、一理あるわ」
女は妙に感心したように頷いた。俺は煙草を箱から抜き出し、火をつけた。
大きく一呼吸。
「よーし自分の浅はかさと愚かさがわかったな?切るぞ」
スマホに手を伸ばしかけたが、抗議の声がなかったので指が止まった。さらに一回紫煙を吸って吐くだけのうすっぺらい時間が流れた。
切るんじゃなかったの?と揶揄の声がかかれば、即座に電源ごと切ってやろうと思っていた。だが予想に反して返ってきたのはひたすらの無言であった。そっと耳をそばだてても、特に気になる音は聞こえてこない。
おい、と声をかけることは簡単であったが、そうする気にはなれなかった。
たとえば、もし今彼女が心筋梗塞かなにかで音もなく倒れていたり、深夜に押し入ってきた不審者に襲われたりでもしていたら、この選択は過ちとなる。そんな可能性を考えないこともなかったが、そんなものはふざけた思いつきであり、あくまで可能性にしか過ぎなかった。代わりに俺は煙草をふかすことを選んだ。
可能性と言ったが、俺と女の間にも過去いくつかの可能性が横たわっていた。社会的に見栄えのするものも、倫理に背くものも、正しいラベルを持たないものも、いくつか存在していた。しかしそのどれも選ばれることはなかった。どれかが選ばれていれば、今夜、電波を介して350kmの距離を隔てていることもなかっただろう。どれも選ばなかったからこそこうしてまだ繋がっていられるのだと楽観的にはなる手段ももちろんある。しかし俺はそれを拒んだ。俺は何事も白黒つけるのを好んだが、彼女との間で決着がついた事象は皆無だった。そして彼女は臆病で、非常識な行動をやめる気配もなかった。
すでに吸い殻が山と積まれた灰皿に煙草を押し付ける。パソコンに向き直り、あまり音がしないよう慎重にマウスのホイールを回す。すっかりスマホからは反応が途絶えていたが、通話が続いていることの証としてディスプレイの数字は一定の速度で刻まれていた。
俺は何を待っているのだろう、とぼんやり考える。それは軽薄な思いつきだった。